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東国の古代史

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2024-04-14 (Sun)  19:00

移住氏族の墓「行田稲荷山古墳」(1/2) ~ 鉄剣出土した埋葬主体部の時代推定

埼玉県行田市には埼玉(さきたま)古墳という有名な古墳群があります。全部で9基ある古墳群は5世紀の後半に突然築造され始めます。通常、ある地域の氏族の勢力というのは、小規模から始まり、次第に成長し、やがて衰退するというのが常です。従って、その勢力を示す古墳の規模も小古墳から始まるのが普通です。しかし、行田稲荷山古墳はいきなり墳長120mの大古墳として始まる。たったの一代で勢力を増大させたとも考えられるが、可能性は少ない。一番可能性が高いのは、すでに有力な人物が集団を伴って他の地域から移住してきたケースです。
しかも、墳丘長120mは5世紀後半の地方古墳としては異常なサイズと言えます。畿内地域を除いて、すでに全国的に100mを超える古墳は消滅した時代だからです。その原因は畿内王権の統制によることは明白です。この事を考えれば当然の帰結として、行田稲荷山古墳の初代埋葬者は王権と何らかの関係性を持つ首長と考えられる。もっと具体的に云えば王権が地方の統制を強化するために派遣した軍事的な任務を担う人物の可能性が高いと思いますまた、この氏族は6世紀に入ると勢力を増大させ、武蔵国造に任じられた可能性が高いでしょう。日本書紀の安閑期に現れる笠原直使主の墓は、行田稲荷山古墳に続く8基の中に必ずあると思います。

【補足】
考古学者の中には、さきたま古墳群を築造した氏族は、武蔵中部の東松山付近の氏族が移住したと主張する人もいます。つまり野本将軍塚古墳や、のちの雷電山古墳の氏族を同族と見ている。しかし、私は東松山の前期古墳勢力は、弥生時代後期に東海地方西部からの拡散移住し、元荒川流域に定着した氏族と見ています。また、さきたま古墳の初代埋葬者氏族は畿内からの移住者であると推測している。主な根拠は、さきたま古墳がこの時代の国造氏族である点ですが、国造でも地方氏族の場合には120~140mクラスの大型古墳の築造が許される可能性は極めて少ない。5世紀末期の全国的な築造古墳を調べると、政権による地方の古墳規模統制は非常に厳しかったと思われる。4世紀代の前方後円墳墓制を共有した緩い広域首長同盟の時代と、中央集権化された5世紀中葉以降とでは全く違うのです。この事から推測できることは、行田稲荷山古墳行田二子山古墳は例外的規模であり、当時の政権と親密な人物系譜と考えるのが妥当と思われます。


行田稲荷山古墳1937年画像
 ↑前方部が削平される以前の行田稲荷山古墳(1937年)

↑墳丘の前方部は、1937年に周辺の沼地の埋め立て用土として採取されて破壊されたそうです。画像を見ると前方部手前に大きな欠損があるので、既に工事が始まった時期の撮影のようです。

行田稲荷山古墳1947
↑すでに前方部が削平されている1947年の行田稲荷山古墳

行田稲荷山古墳現代 
↑現在の行田稲荷山古墳の墳丘画像(前方部は復元されたもの)

その後1968年に埋葬施設の発掘調査が行われた。発掘時は後円部の破壊が進んでいたそうです。また、1976年に内堀の一部が復元され、2003年には前方部の墳丘復元工事が行われました。

豪族居館水祭祀の発祥52
↑行田稲荷山古墳の礫槨の位置(Aの存在は推測)

↑行田稲荷山古墳の2つの埋葬主体部の一方から鉄剣が出土し、10年後に鉄剣から115文字の銘文が発見されました。以下の表は個人的に推測する埋葬者の関係表です。

豪族居館水祭祀の発祥39
↑行田稲荷山古墳埋葬者の関係表(クリック拡大)

上表を参照すると分かりますが、鉄剣を作らせたのは埋葬者本人であるオワケ臣と見ています。対論としては畿内の中央豪族であるオワケ臣が作った鉄剣が、朝廷に出仕していた埋葬者に下賜され、副葬されたという説もあります。確かに埋葬者をオワケ臣とすると、系譜の内容が中央豪族のものであるという問題はあるが、オワケ臣氏族が畿内から移住した氏族と考えれば矛盾はなくなる。また、例え親しい部下だったとしても、自身の誇りである系譜が刻まれた剣を他人に下賜するとは思えない。もらった埋葬者本人も誇りに思うとは考えずらい。さらに当時、地方の国造氏族の男子は王権に一定期間奉仕する義務があった事が分かっており、その軍務を誇りとして作刀したと考えた方が矛盾が少ないと思います。

稲荷山古墳礫槨 
 鉄剣が発見された埋葬主体部Bの展示レプリカ
(※墳丘表面に展示設置されているが本来は地中にあった礫槨です)

鉄剣銘文には、剣が辛亥年に作られた事や、埋葬者が仕えた大王の名はワカタケル大王であることが記されていました。ワカタケル大王とは雄略天皇に比定される人物だが、一説であって確定している訳ではない。この鉄剣は世紀の大発見で日本古代史の推移を揺るがす大事件となります。
 
稲荷山古墳鉄剣 
↑行田稲荷山古墳西礫槨から出土した鉄剣
 
そこから大きな争点も生まれました。記載された辛亥年の実年代に関してです。辛亥年というのは、西暦に直すと以下になります
 
辛亥年 
 

稲荷山鉄剣銘文の辛亥年は、この中のどれかに相当するはずです。一般的には471年説と531年説が有力です。定説としては471年ですが、強硬な反対意見もありました。

実は行田稲荷山古墳の鉄剣出土の埋葬主体部のあった地層からは、榛名山噴火に伴う降灰物Hr-FA(西暦495年/+3/-6が検出されていないのです。降灰物の影響は風に影響され、主にどの方向へ流れたのか分布を見れば分かります。埼玉県にも確実に降灰があった事は他の地質調査で確認されている。地中の埋葬主体部層に降灰層が認められないという事は、埋葬は降灰時期よりも前に行われているという事です。なお、タイムスタンプとなる噴火年代は、地質火山学者の早川由紀夫氏によって、埋没樹木によるウィグル・マッチング法測定されている。

【補足】
 元々、古墳から出土した土器編年から築造は5世紀末頃との推定があった。古墳の造出祭祀場で出土した須恵器の分析で築造時期を特定している。須恵器はTK-47と判定されるが、その中でも古い段階に相当するという。この形式は、いわゆる雄略期須恵器として指標となっており、西暦470年から490年頃に相当する。なお、考古学者の白石太一郎氏は、須恵器は大阪の陶邑窯跡群製と見ている。これが確かなら畿内からの移住者の可能性は高まる。この時代は関東でも須恵器の製造は始まっているが、技術的に未熟で品質が劣っている。登り窯を焼成に必要な1200度の温度に長時間維持できなかったと思われる。

行田稲荷山古墳には主体部に2ヶ所の埋葬施設があり、追葬が行われています。従って、古墳自体の築造年と鉄剣所有者の埋葬年が同じとは限らない事が争点のもとでした。しかし、噴火に伴う降灰物がないことが確かであれば、鉄剣の埋葬はHr-FA495年/+3/-6)よりも以前という事は確実です。鉄剣が作成されてから埋葬されるまでの経緯や時間は不明ですが、鉄剣が作られた辛亥年は西暦471年である事を証明します。
それだけではありません。西暦531年であれば、ワカタケル大王の雄略比定説は崩れるのですが、471年ならば雄略天皇の可能性は高まります。また中国の宋書に出てくる、476年に倭国から朝貢したのは雄略天皇の使者である可能性が高くなります。現在でも531年説を唱えている人がいますが、これらの地質的な事象を踏まえると説得力のない説となります。
記紀に出てくる雄略天皇の実在性に関しては疑問の余地もあります。しかし、古墳時代中期の5世紀において大王(おおきみ)の権力を増大させ、地方への統制力を強化したり、中国との関係を築こうとした大王は存在した可能性が高い。それは畿内を除く大型古墳の突然の消滅という考古学的見地からも推定可能です。仮に雄略天皇が架空の存在だとしても、彼の事績を担った大王は明らかに存在したと思います。


次稿へ続く


【参考引用】
■論文『榛名山で古墳時代に起こった渋川噴火の理学的年代決定 早川由紀夫 他
■国土地理院 航空写真アーカイブ 「1947年行田地区の航空写真画像」
■ホームページ『さきたま史跡の博物館』 「金錯銘鉄剣画像」
■本ブログ記事 考古遺物の年代測定(3/3)「ウィグル・マッチング法」
本ブログ記事 豪族居館・水祭祀の発祥(5/6) -仮説根拠と評価②-
■ウイキペディア  「行田稲荷山古墳の画像1937」
■Google Map  「行田稲荷山古墳の画像」

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No Subject * by ありあんね
形名様
おはようございます。
稲荷山古墳を取り上げていただいて興味深く拝見しました。
行田さきたま古墳群は、私の古墳巡りの原点です。
あのように地域を整備して、その歴史資産を大切にしてくれているのはありがたいことですね。

Re: No Subject * by 形名
ありあんねさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

さきたま古墳の稲荷山古墳と保渡田古墳群の井出二子山古墳は
私にとっても非常に興味ある古墳です。
推測精度に自信はないものの、自分の中では埋葬者の出自や目的意識が
ある程度明確化されているからです。
確かに現状では2つの古墳が大事に保護されて一般の人にも理解しや
すいように展示されているのは素晴らしい事ですね。

No Subject * by ありあんね
形名様

いつも興味深く、記事を拝見しています。
ワカタケル大王、倭の五王は
誰に比定されるのか?
想像が広がります。

ありあんね


Re: No Subject * by 形名
ありあんね さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

倭の五王の問題はそれぞれの王名をどの天皇に比定するかと云うと難しいですね。
宋書によると各王からは遣宋使があったと記録されているのと、
特に雄略期の記録には呉(宋)への使者派遣が幾つも記録されているので、この時代に
朝貢があった事には間違いない。九州王朝説では五王は九州倭国の王だといって
ますが、五王は畿内王権で間違いないと思います。

ただ、この時代の天皇の系譜は書紀の記述をまともには信用できない。
個人的にはワカタケル大王以外は確実性がないと思っています。日本書紀側に
遣宋使の記録が雄略期を除いて殆どないという事は書紀が参照した原記録は
完全なものではなく、大王の名も含めて信頼できる記録ではないと思われます。
従って、倭の五王との比定を厳密に行ってもあまり意味が無いような気もしますね。
ただ「武」がワカタケル大王に相当する可能性が高いという点は、江田船山古墳や
行田稲荷山古墳の鉄剣から認めてもよいと思いますが。

No Subject * by ありあんね
形名様

詳細なご返信ありがとうございました。
ワカタケル大王の時代の比定がネックですね!

ありあんね

Re: No Subject * by 形名
ありあんねさん、こんにちは。

ワカタケル大王の即位事情の信憑性はともかく、実在としても、確かに在位期間には
疑問もありますね。
日本書紀の雄略紀年は中国の記録等から計算される西暦と6年のズレがあるんです。
各天皇の紀年というのはしっかりと直列している訳でなく、並列しているところもあります。
その原因が2人の天皇即位が並立しているためか、現代で云う天皇と皇太子の関係なのか、
それとも天皇空位期間が関係しているのか、不明なところです。


No Subject * by ありあんね
形名様

おはようございます。
昨日 市原歴史博物館へ行って
「王賜」銘鉄剣見てきました。
また 近いうちに記事にしますね!

ありあんね

Re: No Subject * by 形名
ありあんねさん、こんにちは。

行ってきましたか!
私は見たことがないので楽しみです。
確か博物館は稲荷台1号墳のすぐ近くでしたね。

古代史記事を書き始めたころ、割と近い姉崎二子塚古墳は見学したことが
あるのですが、稲荷台1号墳は時間がなくて多分パスしてしまった
覚えがあります。

この剣の「王」とは誰かというのが一番の興味を引くところですが、
少なくとも畿内王権の大王だと思います。昔は、関東の有力豪族という
説も半分あったのですが、他の古墳の事例も合わせると畿内の王という
評価が有力になっていったようです。

江田船山古墳も行田稲荷山古墳も鉄剣の持ち主は当時の国造氏族の
可能性が高い。また鉄剣を造らせたのは、首長の息子でしょう。
当時の地方有力豪族の息子は朝廷の軍務に一定期間奉仕する慣例(義務)
があったらしいです。

稲荷台1号墳の埋葬者も本人は大首長ではないが、その息子でしょう。
国造氏族の息子の可能性があります。
一方、稲荷台1号墳から西へ7㎞ほどの距離に姉崎二子塚古墳があります。
この大型古墳102mは間違いなく国造氏族の墓です。先代旧事本紀・国造本紀
に記載のある上海上国造家墓域の可能性が高い。
やや距離が遠いが、稲荷台1号墳埋葬者は上海上国造の息子かも知れません。
国造後継者が長男とすれば、埋葬者は次男以降であり、墓域が離れている
原因と考えても矛盾はありません。

Re: No Subject * by 形名
私の持ってる書籍には稲荷台1号墳からはTK-208形式の須恵器が出ていると
記載されています。

須恵器形式
TK-208  西暦450~465  允恭・安康時代に相当
TK-23  西暦460~475  雄略時代に相当
TK-47  西暦475~490  雄略または次代に相当
(行田稲荷山古墳須恵器ははTK47の初期)

従って、鉄剣の「王」とは允恭・安康時代となり、当時の大王は正確には
誰か不明ですがワカタケルの先代と思われます。
埋葬者は行田稲荷山古墳の鉄剣持ち主の1~2代前の人物ですね。

No Subject * by ありあんね
形名様

今回は車でしたが、博物館だけ見学して帰ってきました。
でも、資料をいくつか買い求めてきました。
あのあたりは古墳だらけで、次回また行こうと思っています。
詳細なご説明ありがとうございました!

ありあんね

Re: No Subject * by 形名
ありあんね さん、こんにちは。

千葉県は関東で一番古墳が多い県ですからね。
その中でも養老川流域は特に濃密です。
見学するだけで何年もかかるでしょう。

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No Subject

形名様
おはようございます。
稲荷山古墳を取り上げていただいて興味深く拝見しました。
行田さきたま古墳群は、私の古墳巡りの原点です。
あのように地域を整備して、その歴史資産を大切にしてくれているのはありがたいことですね。
2024-04-15-09:01 * ありあんね [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

ありあんねさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

さきたま古墳の稲荷山古墳と保渡田古墳群の井出二子山古墳は
私にとっても非常に興味ある古墳です。
推測精度に自信はないものの、自分の中では埋葬者の出自や目的意識が
ある程度明確化されているからです。
確かに現状では2つの古墳が大事に保護されて一般の人にも理解しや
すいように展示されているのは素晴らしい事ですね。
2024-04-15-12:01 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No Subject

形名様

いつも興味深く、記事を拝見しています。
ワカタケル大王、倭の五王は
誰に比定されるのか?
想像が広がります。

ありあんね

2024-04-16-09:00 * ありあんね [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

ありあんね さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

倭の五王の問題はそれぞれの王名をどの天皇に比定するかと云うと難しいですね。
宋書によると各王からは遣宋使があったと記録されているのと、
特に雄略期の記録には呉(宋)への使者派遣が幾つも記録されているので、この時代に
朝貢があった事には間違いない。九州王朝説では五王は九州倭国の王だといって
ますが、五王は畿内王権で間違いないと思います。

ただ、この時代の天皇の系譜は書紀の記述をまともには信用できない。
個人的にはワカタケル大王以外は確実性がないと思っています。日本書紀側に
遣宋使の記録が雄略期を除いて殆どないという事は書紀が参照した原記録は
完全なものではなく、大王の名も含めて信頼できる記録ではないと思われます。
従って、倭の五王との比定を厳密に行ってもあまり意味が無いような気もしますね。
ただ「武」がワカタケル大王に相当する可能性が高いという点は、江田船山古墳や
行田稲荷山古墳の鉄剣から認めてもよいと思いますが。
2024-04-16-13:44 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No Subject

形名様

詳細なご返信ありがとうございました。
ワカタケル大王の時代の比定がネックですね!

ありあんね
2024-04-17-08:15 * ありあんね [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

ありあんねさん、こんにちは。

ワカタケル大王の即位事情の信憑性はともかく、実在としても、確かに在位期間には
疑問もありますね。
日本書紀の雄略紀年は中国の記録等から計算される西暦と6年のズレがあるんです。
各天皇の紀年というのはしっかりと直列している訳でなく、並列しているところもあります。
その原因が2人の天皇即位が並立しているためか、現代で云う天皇と皇太子の関係なのか、
それとも天皇空位期間が関係しているのか、不明なところです。

2024-04-17-11:17 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No Subject

形名様

おはようございます。
昨日 市原歴史博物館へ行って
「王賜」銘鉄剣見てきました。
また 近いうちに記事にしますね!

ありあんね
2024-04-18-09:07 * ありあんね [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

ありあんねさん、こんにちは。

行ってきましたか!
私は見たことがないので楽しみです。
確か博物館は稲荷台1号墳のすぐ近くでしたね。

古代史記事を書き始めたころ、割と近い姉崎二子塚古墳は見学したことが
あるのですが、稲荷台1号墳は時間がなくて多分パスしてしまった
覚えがあります。

この剣の「王」とは誰かというのが一番の興味を引くところですが、
少なくとも畿内王権の大王だと思います。昔は、関東の有力豪族という
説も半分あったのですが、他の古墳の事例も合わせると畿内の王という
評価が有力になっていったようです。

江田船山古墳も行田稲荷山古墳も鉄剣の持ち主は当時の国造氏族の
可能性が高い。また鉄剣を造らせたのは、首長の息子でしょう。
当時の地方有力豪族の息子は朝廷の軍務に一定期間奉仕する慣例(義務)
があったらしいです。

稲荷台1号墳の埋葬者も本人は大首長ではないが、その息子でしょう。
国造氏族の息子の可能性があります。
一方、稲荷台1号墳から西へ7㎞ほどの距離に姉崎二子塚古墳があります。
この大型古墳102mは間違いなく国造氏族の墓です。先代旧事本紀・国造本紀
に記載のある上海上国造家墓域の可能性が高い。
やや距離が遠いが、稲荷台1号墳埋葬者は上海上国造の息子かも知れません。
国造後継者が長男とすれば、埋葬者は次男以降であり、墓域が離れている
原因と考えても矛盾はありません。
2024-04-18-10:21 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

私の持ってる書籍には稲荷台1号墳からはTK-208形式の須恵器が出ていると
記載されています。

須恵器形式
TK-208  西暦450~465  允恭・安康時代に相当
TK-23  西暦460~475  雄略時代に相当
TK-47  西暦475~490  雄略または次代に相当
(行田稲荷山古墳須恵器ははTK47の初期)

従って、鉄剣の「王」とは允恭・安康時代となり、当時の大王は正確には
誰か不明ですがワカタケルの先代と思われます。
埋葬者は行田稲荷山古墳の鉄剣持ち主の1~2代前の人物ですね。
2024-04-18-11:12 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

No Subject

形名様

今回は車でしたが、博物館だけ見学して帰ってきました。
でも、資料をいくつか買い求めてきました。
あのあたりは古墳だらけで、次回また行こうと思っています。
詳細なご説明ありがとうございました!

ありあんね
2024-04-19-09:31 * ありあんね [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

ありあんね さん、こんにちは。

千葉県は関東で一番古墳が多い県ですからね。
その中でも養老川流域は特に濃密です。
見学するだけで何年もかかるでしょう。
2024-04-19-15:11 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]