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東国の古代史

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2016-02-18 (Thu)  05:59

佐野三家の出自について (1/3) - 碑文に見える屯倉管掌氏族 -

群馬県高崎市に佐野という場所があります。恐らく西暦610年頃には佐野屯倉(さののみやけ)が置かれていた地域です。といっても当時の佐野と今の佐野が同じ地域だと思うのは早計らしい。当時の佐野は現在よりも相当広かったか、または、別の地域を指していた可能性もあるようです。
日本書紀をみると推古朝の西暦607年に各国に屯倉を設置したと記述されています。素直に読めば畿内の三ケ国に設置されたと書いてあります。東国の各地方にいっせいに設置されたとは思えませんが、この時代近辺に設置されたのは間違いないのでしょう。
屯倉というのは天皇(ヤマト朝廷)の直轄地です。7世紀の中葉になって律令制度の構想が固まってくると、土地の私有はやがて禁止されるようになりますが、この時代はまだ殆どが地方豪族の所有地であり、各地に屯倉が分散している状態だったようです。
屯倉は、当然、朝廷直轄地ですから、その管理者はヤマト朝廷の官吏でしょう。佐野の屯倉は、日本書紀などにはその名は出てきませんが、高崎市山名町にある山上碑の中に管理者の名前が出てきます。


佐野三家の出自について1
山上碑と山上古墳


碑文には次のように記されています。

辛巳歳(かのとみのとし)集月三日(10月3日)に記す、
佐野の三家(みやけ)と定め賜える健守の命(たけもりのみこと)の孫、
黒売刀自(くろめのとじ)此れ新川臣(にいかわのおみ)の児、
斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫の大胡臣(おおごのおみ)に
娶(めあ)いて生める児、
長利僧(ながとしのほうし)母の為に記し定める文也
放光寺の僧


【補足】
■辛巳歳集月三日とは西暦681年10月3日を指すものと云われている。通説に従うなら、大化の改新から36年経過してるので既に公地公民の時代で屯倉は廃止されています。しかし、自分は645年の大化の改新は日本書記の創作であり、8世紀初頭の律令制度が半世紀前倒しで記録されたとみている。従って、681年当時に屯倉自体がまだ存在した可能性があると考えている。
■「孫」という表記があるが、現在で云う孫と同じ意味ではなく、子孫を表す可能性がある。従って系譜から健守命の存命時代を特定することは出来ても一定の幅を持つ推定値になる。
■10世紀に作られた和名類聚抄には各国の群郷名一覧が記載されているが、佐野郷というのは記載されていない。従って後の時代には「佐野」という表記ではなくなった可能性もある。現代では、下賛郷、佐没郷、小野郷等が該当すると推定されているが明確な証拠はない。
■新川臣、大胡臣は上毛野一族ではないかと推定されてる赤城山南面裾野部の豪族。
■「長利」は人名説と、名前ではなく寺の役職名であり、統括者「長吏」を指すという説もある。


碑文は隣にある山上古墳とセットで意味を成すものであり、古墳の墓碑として、僧である自分の母(黒売刀自)と墓を造った自分の系譜関係が記されています。但し、古墳の築造は西暦650年くらいの特徴をもっており、黒売刀自の父親との合葬墓の可能性が高いといわれている。
長利は名前のような気がします。名前+僧という用法は他の文献にも出てきます。それに亡き母の墓碑に系譜を記載してるのに、此処だけが寺における役職名というのは違和感があります。只、系譜を記載する事がなぜ母の為になるのかやや判り難いです。母の出自を名誉としているのか、名族の血をひく自分を生んだ事で母を称えているのか?何れにして当時の系譜というものが有力者にとって如何に重要なものかが分かります。その系譜ですが、以下となっています。

 佐野三家の健守の命-○-黒売刀自(母)--
                      |---長利(放光寺の僧)
 新川臣-斯多々弥足尼-○-大胡臣(父)--



これによると、佐野屯倉三家)の管理者は、建守命(たけもりのみこと)と云う名前であったことが分かります。碑文の系譜と屯倉の推定設置年代から建守の命が初代の管理者であった可能性が高いそうです。
三家は屯倉管理者を意味しないという説もありましたが、「定賜」は他文献でも朝廷からの官吏としての任命事例があります。従って音に通じる屯倉管理者を指さないと意味が通りません。

新川臣の系譜は赤城山の麓、旧勢多郡地域の豪族で上毛野氏の流れを汲む一派の可能性が高い。8世紀には勢多郡の上毛野朝臣足人(たるひと)の名前が続日本紀に出てきます。赤城山麓の地域は上毛野氏とその同族が広く居住してた考えられます。佐野三家が上毛野氏と婚姻関係にあることは重要事項です。よく分からないのは、建守命の出自です。
この時代の屯倉の管理者がどうやって決まったのか、私には全く分かりませんが、ヤマトから派遣されたか、または、在地豪族が委託されるかのどちらかでしょう。しかし、氏姓がわからないのでは、出自の判断のしようがありません。

最近、山上碑の近くにある『金井沢碑』に関する本を読みました。金井沢碑山上碑から45年後に建てられたもので、数キロ離れた場所で出土しました。

そこで今更ながら分かった事があります。
金井沢碑は、佐野三家の子孫の配偶者である女と、その子供と、孫達と更に何人かの一族関係者が先祖を供養するために仏に帰依(入信)することを宣誓した碑です。
(碑文は難解で解釈に幾つかのパターンがあるので記載しません)


佐野三家の出自について2
金井沢碑と覆い屋


この一族関係者に三家毛人(みやけのえみし)、三家知万呂(みやけのちまろ)という名前が出てきます。つまり、三家というのは単に屯倉管理者を指していると思っていましたが、どうやら、後の時代には“三家”自体が氏(うじ)を表しているようです。
屯倉の管理者を輩出する氏族が三宅連(みやけのむらじ)という氏姓を得たのは例がありますので、この事は特殊な例とは云えません。ただ、碑文には姓(かばね)がありません。この事は重要なのですが後述します。

金井沢の碑文からもう一つ分かったことがあります。
佐野三家の子孫である主婦の3人の孫のうちの一人は、物部君午足(もののべのきみうまたに)という名前です。物部君は碓氷郡、磯部地方、片岡地方を治めた石上部君(いそのかみべきみ)の一族で、特に高崎市西部を拠点としたらしい氏族です。

つまり佐野三家で生まれた女は石上部一族と婚姻関係にあるということです。石上氏は奈良県天理市の石上神社(物部氏の氏神)周辺に勢力を張った物部同族です。元は東国六腹朝臣(あづまむつはらのあそみ)の一つ、池田君配下の氏族として群馬西部に入植したようですが、この時代は主家よりも強大になっていて、群馬でも最大勢力の氏族と云われている。ただ、物部同族といっても真の同族かどうかは疑問です。おそらくは擬制氏族でしょう。

金井沢の碑が作られたのは西暦726年です。この時代は既に大宝律令が施行されていますから、もう屯倉は存在しません。普通だったら佐野三家の一族は衰退していても不思議ではない。しかし、佐野三家一族は周辺在地豪族と婚姻関係を盛んに結び、同化していたらしい事が伺えます。


次回に続く


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