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東国の古代史

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2019-07-31 (Wed)  22:13

陳寿にはめられた日本人(3/4) -三国志の特異性と陳寿の性質-

中国には二十四史と称する正史が現存しています。この中で司馬遷の書いた史記陳寿の書いた三国志だけは特異な性格を持っています。他の二十二史の歴史書は何れも滅び去った前王朝の歴史を皇帝から命じられて編纂したものです。ところが司馬遷史記陳寿三国志は、自らが生きた同時代史を自らの意志で書き上げています。
               
陳寿にはめられた日本人7
司馬遷

陳寿にはめられた日本人8
陳寿

陳寿の生き様はの正史である晋書のなかに陳寿伝として記録が残っています。陳寿の出身で、才能のある官吏であると同時に中々硬骨漢であったようです。専横を極める時の権力者には反発もしたようです。また一方で、同じ晋書の中で陳寿の悪評に関する逸話も記載されています。陳寿の出身で禄を得ていたにも関わらず、後漢の正統な後継者と考えていたので、西晋が滅びた後に批判を浴びている。悪評はこれが原因で作られたと思われます。時流に流されず、自分の考えを貫いたので反発をかったのでしょう。
また陳寿は形式主義的な慣習にも従うこともなかったので失職して郷里でくすぶっていた時期がありました。そんな彼を推挙して秘書官の職に就けてくれたのは、晋王朝の宰相や将軍として名高い張華です。彼が優れた人物であることは晋書張華伝を読むとよく分かります。詳しい経緯は不明ですが、彼は陳寿の類まれな能力を見出して推挙したものと思います。二人は年齢も一歳しか違いませんが、気も合ったのかも知れません。


陳寿にはめられた日本人9
張華

しかし庇護者である張華も、その才能がゆえに政敵に妬まれ、浮き沈みの激しい人生でした。陳寿よりも僅かに長生きしましたが、最後はクーデターに巻き込まれて一族尽く処刑されます。中国の歴史というのは凄まじい。人間不信の国というのが良く分かります。陳寿張華が失脚すると冷遇され、波乱の人生だったようです。彼が三国志を執筆したのは、正に不遇の時期だったそうです。このような事情で陳寿の三国志は初めから正史として扱われたわけではありません。正史として書き上げてはいるものの、日の目を見たのは彼が亡くなった後でした。

彼の生きた時代は、が滅び(西普)の時代への過渡期です。というのは後漢を受け継いだ国ですが、後漢の王はすぐに廃され、王位に就いたのは側近の曹操とその子孫でした。数年前に中国で曹操の陵墓が発見されて話題になりました。しかし曹操の子孫もやがて側近であった司馬氏に実権を握られます。
将軍職にあった司馬氏は遼東半島の付け根にあった宿敵公孫氏を滅ぼして権力基盤を固めた。公孫氏も元はの臣下でしたが、に背きを起こし、と連携して反抗しました。公孫氏を滅ぼしたことで中国の北東部は朝鮮半島中部までの領有となります。司馬氏は中国北東部を基盤とした権力者となったわけです。
やがて、司馬氏一族はクーデターで曹氏派から実権を奪います。そして後に飾り物であった曹氏の王位を廃し、に代わって朝を起こします。国名は替わりましが、実質的に権力者が変わった訳ではありません。陳寿の生きた時代は正に司馬氏が実権を握っていた時代でした。これが、三国志が同時代史と云われるゆえんです。陳寿を庇護した張華司馬氏に仕えていたわけです。司馬懿の孫に当たる司馬炎(普の初代皇帝)は特に張華の才能を認めて寵臣として扱いました。

張華の宰相や東北部の将軍職を務めた経験から、朝鮮半島情勢にも詳しかった筈です。張華自身は倭国に渡ったことは無いが、の使節は倭国に行っています。また、中国の華僑達はかなり古い時代から倭国と交易していた可能性が高い。彼等からも生の情報が張華にも伝わっていたと思います。また陳寿張華によく接触しており、東夷辺境地域の情報を張華からもたらされていたでしょう。しかし、実際には魏志東夷伝に正確な情報が記述される事はなかった。
陳寿三国志に関する評価として、同時代史であるがゆえに時の権力者におもねるあまり、司馬氏の功績を誇張していると云う説があります。大将軍であった司馬懿(しばい)が平定した中国東北部ですから、彼の戦果は過大に誇張されているという評価です。
通常のように滅び去った前王朝の記録ならば客観的に見られるが、そこには現権力者一族に対する遠慮やヨイショがあるはずで、批判的に見るべきだということ。確かに此の説には一理あると思います。平定した朝鮮半島を巨大な半島として距離を水増しして記述されたのは、その影響かも知れません。しかし、陳寿が誇張したというより、当時の司馬懿の功績は朝廷内で既に事実としてまかり通っていたと思われます。陳寿が誇張を主導したわけではない。

これは私の想像ですが、陳寿は再就職の世話をし、その後も庇護してくれた張華には深い恩義を感じていたと思います。陳寿自身は出身であるびいきと言われています。の軍師諸葛孔明を高く評価し、詩文集を編纂しています。陳寿は孔明一族には評価されませんでしたが、孔明の政治力についても賞賛していました。から禄を得ていたとしても、を滅ぼしたの実質的な後継である司馬氏をヨイショしたくはなかったと思います。諸葛孔明が五丈原で病死した時に戦っていた相手はまさに司馬懿(しばい)です。


陳寿にはめられた日本人16
諸葛亮と司馬懿が対峙した渭水南岸の五丈原
(クリック拡大)

陳寿にはめられた日本人10
五丈原丘陵地帯

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」は三国志を知らない人も聞いたことがあるでしょう。仲達は司馬懿の字(あざな)です。五丈原の対峙中に孔明が死去すると、蜀軍は撤退を始めます。仲達が此れを追撃すると、突然、蜀軍は軍旗の向きを変えて反撃の構えを見せます。仲達は、孔明はまだ生きているのではないかと疑い、魏軍を後退させた。蜀軍は整然と隊伍を組んで撤退していったそうです。孔明の巧みな戦略が恐れられていた事を示す名言です。


陳寿にはめられた日本人17
諸葛亮孔明

陳寿にはめられた日本人11
司馬懿

話がそれましたが、陳寿が三国志を書くうえで司馬氏の功績を誇張したのは、朝の秘書官として推挙してくれた張華への配慮のような気がします。張華は才能があるゆえに皇帝の側近に敵も多く、常に微妙な立場に置かれていました。小さな不手際からも彼の立場を悪くする可能性があったと想像します。事実、張華陳寿の死後、権力闘争に巻き込まれ一族全て皆殺しにされている。
三国志司馬氏の命令で書き始めたものではなかったので、客観的な事実で記述することは可能であったでしょう。しかし、書が世に出た場合、推挙した張華に災いが及ぶ可能性はある。時流に流されない硬骨漢ではあっても、窮地を救ってくれた恩義を忘れる訳にはいかなかったと推定します。三国志は陳寿の死後に見いだされて、正史として扱うことが許された訳ですが、それは司馬氏の功績が当時の世評に反しない内容で描かれたからこそではないだろうか。このあたりが、前王朝が滅んでから執筆される正史と同時代史との違いでもあるような気がします。

【補足】
三国志が全体的に、文体も秀逸であり、正確で客観性のある執筆指針でも優秀であることは中国でも認められている。同時代の正史を目指していた文筆家は他にもいたらしいが、三国志の見事さに触れて執筆を諦めた人物もいるという。中国人は権力者にへつらう書には批判的な評価をする傾向がある。三国志は陳寿が自らの意思で書いた正史であり、司馬氏に対しても批判的な内容があったとしても不思議ではない。書が世に出たのは彼の死後であるから、内容が改変された可能性についても調べてみたが、特に証拠になるような情報はなかった。


次稿に続く


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