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東国の古代史

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2019-08-03 (Sat)  18:20

陳寿にはめられた日本人(4/4) -大国として描かれた南国の倭国-

魏志倭人伝の誇張が東夷の地を平定した司馬氏や、恩義を受けた張華への配慮に影響されてる可能性については前稿で述べました。しかし、司馬懿(しばい)は公孫氏を滅ぼして朝鮮半島中部まで手中としましたが、倭国を攻めて領土とした訳ではありません。でも倭人伝の記述は倭国内の里程も誇張し、人口も著しく水増しが入った可能性が高い。たぶん司馬氏が倭国の朝貢を促した事実はあったろうと思いますが、それだけで、すべての誇張が施されたという論は弱い気もします。このあたりをもう少し検討します

東洋史学者の岡田英弘氏は、「中国の皇帝とは伝統的に外国使節の朝貢を求める」性格を持つと述べています。この性格は中華思想に起因すると云われる事が多い。中華思想とは古代道教の思想で、五服(ごふく)と呼ばれることもあります。この思想は、世界の中心は中国にあり、文化の中心である。辺境へ行くほど人民の文化度は低いが全て中国皇帝の臣民であるという考え方です。しかし、岡田氏は中華思想に原因を求めるのは誤りだと述べている。
                 
陳寿にはめられた日本人12
岡田英弘氏

中国人は喧嘩をしても当人同士の暴力に訴えることを美徳とはしません。では何によって勝負を付けるかというと、喧嘩をとりまく見物人にいかに相手が不当であるかを訴えるのだそうです。そして、味方につけた人数が多い方が勝ちという訳です。この際、味方に付ける人間は中立の立場の人間でなければなりません。

大陸文化の中国人は徹底した人間不信が基本ですから、第三者を味方に付ける事に価値を置く。この原理は国政のレベルでも同じです。三国志の時代は、という国に分かれて内乱となっていたわけですが、外交攻勢ではいかに諸外国を味方に付けるかで争いました。辺境の倭国からの朝貢も、むしろ倭国からの動機よりも、受ける側の中国に動機があった。勿論、倭国側も中国に後ろ盾になってもらうことで倭国内での優位性を得るというメリットがあった。お互いの目的に合致した朝貢といえる。

中国側から見れば、朝貢してくる国は、遠いほど、また、大国であるほどアピール力があります。それだけ、皇帝の徳が隅々まで知れ渡っていると宣伝できるからです。魏は西暦229年にはるばる西域の西トルキスタンのクシャン国から朝貢を受け、親魏大月氏王の称号を贈っていることは前稿でも記載しました。クシャン国は倭国よりもだいぶ大きな国だったようです。従って、対する東側の遠国からも朝貢が欲しいと思っていたはずです。此処にやって来たのが倭国(邪馬台国)ということ。
は西暦239年に倭国王に親魏倭王の称号を与えます。これは西のクシャン国に対する東の振り合いです。おそらく、は倭国が小国であることは知っていたでしょう。しかし、朝貢の宣伝合戦ですから、小国などと云う訳にはいきません。邪馬台国に至る行程も長大にして、そこに住む住民の数も大幅に水増しする必要があった。

【補足1】
後漢書西域伝クシャン国親魏大月氏国)の記録を見ると、「戸数10万戸、口40万、勝兵10余万」と記録されている。つまり戸数10万戸、人口は兵士を含めて50万人強です。中国の1戸あたりの平均人数は時代毎に多少変動しますが、平均すると約5人余りです。此の値は前述のクシャン国データでも一致している。この事は、中国人の目から見た計数法によっているからでしょう。魏志倭人伝の戸数も中国人による計数法で見ることが可能であると判断します。当時は律令制度の時代ではありませんから、後の庚午年籍戸籍(へのふみた)と同等と見る訳にはいきません。クシャン国の10万戸50万人と、倭国の15万戸75万人の人口を比較しても、両者の里程と同じように倭国のほうが、より誇張されていることが想定できる。アフガニスタン、パミール高原、インド北部にまたがる広大な国よりも人口が1.5倍も多いという設定になっています。

陳寿にはめられた日本人13
クシャン国(クリック拡大


以上が岡田氏が主張する、倭国が大国として魏志倭人伝に記録された原因という訳です。なかなか説得力のある論旨だと思います。卑弥呼の朝貢も中国側から朝貢要請に応じた可能性が高いのだろう。ただ、陳寿が三国志を実際に記述した時期を調べてみると、蜀が魏に滅ぼされ、に滅ぼされたあとの西暦280~284年頃でした。結果的にはの時代は長くは続かないのですが、一応、三国時代は終結して中国が統一されていた時期です。従って、三国志自体がの宣伝合戦のネタ目的と云うのは間違いです。宣伝合戦はの時代から継続していたと見るべきです。からの時代になっても権力者一族は変わっていないのですから、それが求める権威の象徴には変わりはない。司馬氏が実権を握っていたの宣伝情報は過去の既成事実として扱われたという事です。
この頃、倭国では卑弥呼は既に亡く、次の宗女トヨの時代です。トヨは266年にに朝貢していますが、280年頃は晩年(推定45~48歳)に当たります。トヨと畿内ヤマト朝廷の関係は無いのかもしれませんが、初期ヤマト王権が形成されていた時期になります。


「陳寿にはめられた日本人(2)」で魏志倭人伝の疑問点として、日本列島が九州を北にして南北に伸びた列島であるように記載されていることに触れた。おかしいのは南北に傾いた列島だけではありません。日本列島の全体の配置(緯度)が台湾付近以南に想定されているようです。これは、邪馬台国への里程、所要日数、風俗の記載にも合致しています。
なぜ、日本列島を南国にもっていくのでしょうか。実際に倭国に到達した人間を方位で騙すことは出来無いと思います。船乗りにとって方位の正確さは生死にに関わる事であり、行き当たりばったりで辿り着いてるわけではありません。

此れについても、岡田氏は論を述べている。
前稿で中国遼東地方の公孫氏に反抗してという国を起こしたことは記載しました。公孫氏は名目上はの地方官でしたが、に反抗する機会を狙っており、孫権と連携してに対抗していました。いわゆる近攻遠親策、「敵の敵は味方」というものです。は反乱を起こしたと組んで南北から牽制したわけです。特には水上戦に強かったから、初期の制海権はが握っていたのでしょう。


陳寿にはめられた日本人23
三国時代の魏、呉、蜀の位置関係(クリック拡大
(魏の公孫氏は238年に司馬懿によって滅ぼされている)


としてはを牽制する味方が欲しかったはずです。その役目を担ったのが、親魏倭王を与えた倭国という訳です。牽制するには、味方は敵の背後にいるのが上策です。そこで倭国を南国であるの東方上に配置して、を牽制したという解釈です。この宣伝情報は、の同盟国である倭国が単に大国であるだけでなく、を脅かす位置にあるという点が最大の目的だったと考えると受け入れやすい。西域のクシャン国の里程をも凌駕する、17000里という途方もない誇張は、単に司馬氏の功績を称えるだけでなく、大きな目的が隠されていたという解釈は説得力があります。

の使節は倭国に実際に渡っていますから、倭国への距離感は正確に把握していたはずです。でなければ実際に辿り着くのは不可能です。言い換えれば、魏志倭人伝の記載の誤りに使節関係者は気がついていたでしょう。しかし、は倭国がにとって脅威となるような国力を持っていないのは分かっていますから、に倭国の実態を知られて困ります。ましてや、に海上航路で直接倭国に到達されては絶対に困るわけです。従って、異常な里程の誇張は、戦略上の理由から倭国の正確な位置を隠すためとも考えられます。ただ、陳寿張華が此の事実を知っていたかどうかは不明です。魏志倭人伝の詳細な記述が全てデタラメとは思えないが、方位や里程は、実態とはかけ離れた値が朝の公式記録として管理され、陳寿に渡った可能性もあるでしょう。ある地点から里程ではなく所要日数に変わるのも情報撹乱のようにも思えます。もし、陳寿が邪馬台国の実態情報を把握していたとしても、前稿で記したように張華への配慮から、朝廷の公式記録に反してまで真実は書けなかったような気がします。


陳寿にはめられた日本人22
Google Earthによる洛陽~沖縄南端までの行程距離クリック拡大


上の図は、魏の首都洛陽から福州市の真東にあたる沖縄那覇までの行程距離図です。実際の行程ルートと比べると誤差が大きいでしょうが、沖縄まで入れても、約4000~4200Km程度でしょう。此の値は、17000里=7395Kmを考えれば、まだまだ差が大きい。此れほど誇張する必要はなかったと思われるが、やはり「17000里」の数値自体は、西域クシャン国の16370里に対してバランスをとったサジ加減の要素があるのでしょう。

なお、2019年現在においても、中国史書の里程と現代知識による実距離から短理を導入したり、別の観点から短里を持ち出す論者が多い。彼らは邪馬台国の所在に関する自身の主張に沿って、里という単位を都合よく改変したいのだと思うが、つじつま合わせの考え方だと感じます。一般に日本の史書は批判的に評価する人は多いが、なぜか中国史書を批判的に論じる人は極少ない。潜在的に古代中国の高い文化性に萎縮してしまっているのだろうか。中国史書にも何らかの目的を持って、嘘や誇張があるという視点で考えても良い頃だと思います。

さて長々と書き連ねましたが、何れにしても、魏志倭人伝が何らかの事情で正確な地理誌になっていないのは事実と思われます。結果的に親魏倭王という偉大なる称号が与えられると同時に、これまた偉大なる邪馬台国という幻想が後世に伝えられる事になったわけです。陳寿が意図したわけではないが、まさに私達は「陳寿にはめられた日本人」と云えそうです。





【補足2】
中国の史書には、邪馬台国の大雑把な方位が記述されている。
■三国志(完成時期280~284年頃)
 計其道里當在会稽東治之東
 意:(女王国までの)道里を計ると、まさに会稽東(かいけいとうち)の東にある。
■後漢書(完成時期は430年代)
 其地大較在会稽東冶之東
 意:その地(邪馬台国)はほぼ会稽東(かいけいとうや)の東にある。


陳寿にはめられた日本人21
会稽東治と会稽東冶の緯度の違いクリック拡大


会稽郡というのはの領土にあった地方名ですが、両書の記述には東治東冶の違いがあります。現在でいう蘇州市福州市に相当しますが、地図で示すように南北に570Kmほど離れている。この解釈については諸説あってどちらが正しいとは決着が付いていません。邪馬台国を九州島の中に置きたい論者は三国志の記述が正しいと主張するでしょう。個人的には、三国志の会稽東の東のほうが正しい気がします。というのは中国の使節は実際に倭国と往来しています。後漢書記述の会稽東の東になれば、倭国は下図の黒潮流路の東側にあることになり、往来のためには黒潮を横断することになります。屋久島とトカラ列島の間を流れる黒潮は、当時の中国の漕手のいる帆船でも横切るのは不可能で、誤って入った場合は抜け出せず、遭難する可能性が高いからです。もちろん鹿児島県より南にある島が邪馬台国である可能性はないということもあります。
古代の中国人は一寸千里法という方法で、南北方向の距離を測る方法を知っていました。しかし、前述の誇張説に立てば、列島配置自体に詐称意図があるのですから、どちらが正しいかはあまり意味のないものになります。からすれば背後に当たる会稽東の東方のほうが、インパクトは大きいでしょう。それに、3世紀の中国の持つ海上地理知識は、それほど精度の高いものでないのは、現存する14世紀の地図を見ても分かります。邪馬台国の方位記述の不一致は、原因に関わらず大きな問題ではないでしょう。


陳寿にはめられた日本人24
黒潮の流路と流速(海上保安庁データ)
クリック拡大


【補足3】
中国で三国鼎立が確立したのは222年頃ですが、3つの勢力が牽制し合い、戦うのは黄巾の乱184年以降まで遡ります。孫権は倭国が親魏倭王を貰う9年前の230年に海東遠征を行っています。配下の将軍衛温と諸葛直の二人の将軍に命じ、軍船に1万の兵士を乗せて夷州(いしゅう)亶州(せんしゅう)に向かわせています。不老不死の霊薬を求めたという説が一般的ですが、霊薬目的で1万もの兵力を預けるとは思えない。水軍は両国の征服が目的であったものと思われます。前面の魏と対峙し、更に背後に敵を置くのは上策ではないので、背後の勢力を把握するために先制攻撃しかけたのではないか。夷州亶州の東方、太平洋上に浮かぶ島国と考えられていた。夷州台湾だと思いますが、亶州はどこか明確ではない。
孫権の遠征軍は夷州(台湾)には上陸できましたが、亶州へはたどり着くことができず、航海中に兵士の9割を疫病で失った。230年当時に、亶州を倭国と同一視していたとは思えないが、台湾の東方沖合にあるというイメージは持っていたと思います。それでは見つかるはずがありません。亶州の存在は、欺瞞情報として魏が三国時代の初期から国内に流布していた可能性があります。国内に流せば自然に呉にも流れるからです。


陳寿にはめられた日本人14
孫権


【補足4】
中国では、(しん)の始皇帝の時代以前から長江付近の東海上には伝説の国があるという考えを持っています。そこには神仙が住み、不老不死の薬があると信じていました。始皇帝が不老不死の妙薬を求めたのは有名な話で、何回か探索部隊を出しています。徐福伝説では、の時代の方士徐福が3000人の男女を連れて山神山へ渡り、戻らなかったという伝承がある。は倭国が朝貢してきたのちは、恐らくこの伝説の国を倭国にかぶせようと画策した可能性があります。

東南海夷図精密
14世紀の中国東南海夷図に描かれた日本列島二重クリック拡大

14世紀まで下るが、中国の東南海夷図には日本列島の四国に相当する島に「徐福赤丸の部分)」という地名があります。此の命名は、徐福が渡った山神山は日本列島(倭国)の中にあるという認識が中国にあったと思われます。この認識がいつの時代まで遡れるのかは不明ですが、三国時代のの情報戦略の名残ではないかと考えています。想像ですが、徐福は実際に日本列島の中国地方や四国あたりの可能性があります。前述で補足しましたが、中国船がもし黒潮に乗ってしまうとすると、運良く抜け出せるとしたら、四国付近の可能性が高いからです。黒潮には乗らず東に航路を取ったとすれば、北九州や中国地方になるでしょうか。


陳寿にはめられた日本人15
三国時代の中国水軍船





※本稿には追加補足稿があります。


参考・引用資料
■『三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝・倭人条』(翻訳版)
『晋書・陳寿伝』(翻訳版)
『華陽國志・陳寿伝』(翻訳版)
『晋書・張華伝』(翻訳版)
『中国五千年』         陳舜臣 著
『諸葛孔明』          陳舜臣 著
『卑弥呼-倭の女王は何処に』    関和彦 著
日本国家の起源』       井上光貞 著
『日本史の誕生』        岡田英弘 著
『倭国』            岡田英弘 著
『倭国の時代』         岡田英弘 著
『女王卑弥呼の国家と伝承』   前田晴人 著
■『魏志倭人伝の謎を解く』    渡邉義浩 著 
■『邪馬台国の考古学』      石野博信 著
■ Google Earth / Wikipedia


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