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東国の古代史

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2018-01-29 (Mon)  22:10

聖徳太子は天皇か?『隋書倭国伝』(1/2)

以下は中国の史書『隋書』「倭国列伝」の中の一節です。

開皇二十年、倭王の姓は阿毎(あめ)字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)号して阿輩弥(あほけみ)というもの、使を遣わして闕(けつ)に詣(いた)らしむ。
・・・中略・・・
王の妻は弥(けみ)と号す。後宮には女六七百人有。太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたふり)と為す。城郭無し。
・・・・・・

開皇20年は推古天皇6年にあたり、西暦600年です。書紀によれば厩戸皇子(西暦574~622)が生きた時代の日本の状況が記されています。古代史本を読むと必ずと言っていいほど引用されている有名な箇所です。
ここには推古女帝の時代なのに倭王が男性として記されています。天皇の諡号をみると、“タラシヒコ”と名づけられた天皇はたくさんいますが全て男性の天皇です。“ヒコ”は“彦”ですから、これは間違いありません。

この記録にはもう一つポイントがあります。“太子”の名前は“利歌弥多弗利(りかみたふり)”と書かれています。この名前が太子の個人名(厩戸皇子のこと)を指すのか、あるいは、太子(皇太子)という地位の日本での呼称を指すのかという点です。素直に読めば前者ですが、日本側の説明のしかたが悪かったか、または、中国側が誤解したことも考えられます。

これは引用ですが、利歌弥多弗利(りかみたほり)は和哥弥多弗利(わかみたほり)の誤記だという説があります。説の詳細は割愛しますが、和哥弥多弗利(わかみたほり)は皇族を意味する「わかんどほり」の音を表しているというのです。この言葉は実際に『源氏物語』などに「わかんどほりばら(腹)」として使われています。「皇族として生まれた人」という意味です。今風に云えば「皇族出身者」ということでしょう。

従って、『隋書』「倭国列伝」の利歌弥多弗利(りかみたふり)は個人の名前ではなく、単に「倭国では太子のことを“皇族”と呼びますよ」と中国皇帝に説明したと考えられる。勿論、これは一つの説であり、正しいとは限りませんが、説得力はあるように思います。素直に個人名だったとしても、該当する人物を特定できないということは意味が違うと考えたほうが適切だと思います。
尚、太子という言葉ですが、中国側が意図してる太子と日本での太子は意味が違っていると思います。中国側は恐らく次の天皇位を指したでしょうが、日本では、当時、次期皇位を指す皇太子制度はありませんでした。従って、単に「天皇の御子」という意味で使ったものと考えられる。

聖徳太子は天皇か
厩戸皇子


さて、一番問題の「多利思比孤」とは何を意味するのかという点です。この記述については、いろんな書籍に幾つもの説が掲載されています。その内容を抽出してみると以下のようなものです。

①多利思比孤は厩戸天皇をさす
当時は既に推古天皇から厩戸皇子(聖徳太子)に譲位されていた。

②多利思比孤は厩戸皇子をさす
摂政であった厩戸皇子(聖徳太子)の説明が天皇の事として誤って伝わった。

③多利思比孤とは日本の天皇の位置付けを表している
阿毎と多利思比孤は一語であり、「天垂らし彦」という一般名詞である。固有名詞ではない。天皇は「天上より降臨された尊い人」という意味で説明したのであり、中国側の誤解がある。

④多利思比孤は小野妹子の祖先である
小野妹子の祖先は天押帯日子命(あめおしたらしひこ)なので小野妹子の祖先の説明が誤って天皇の名前と誤解された。

⑤多利思比孤は聖徳太子の父、用明天皇である
『新唐書』「日本伝」で、用明天皇の別名を「目多利思比狐(めたりしひこ)」と記している。これは「あめたらしひこ」の「あ」が脱落した結果である。

⑥女性天皇を隠すため、多利思比孤という男性名で伝えた
女性天皇への蔑視を避けるために男性名で伝えた。



次稿に続く






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関連記事
良い考察為さってます * by 邇波
倭王は阿毎 多利思比孤号して阿輩弥という者、使を遣わして・・・

和哥弥多弗利で、高貴な血統を元に子を儲ける制限が課されてます。

王の妻は弥と号す。後宮には女六七百人有。太子を名づけて利歌弥多弗利と為す。

王は後宮を持ち対外的な倭王では無いと分かります。
そして利歌弥多弗利は、王の子です。

倭王とは大君で、王の君 つまり臣下です。 桓武天皇は、言います。 記紀には、「天皇が臣下になっているから正しく無い従って焼き捨てよ」

詰まりは、傀儡王で、実質的な王は、大人と呼ばれている事を示してます。

桓武天皇時代から大人を大臣と呼び大君を天皇としました。

人物はそれぞれ実名で

倭 聖大君(聖徳太子)
蔓木 摩理勢大人 (蘇我 馬子)
蔓木 毛人 (蘇我 入鹿)です。

次いでに子等を
長男 林 浜萬呂 神威 毛人 宗形 鳥萬呂
女子庄子(天武天皇の后)です。

実際の王名表 * by 邇波
初代 倭 旨 346年~
二代 倭 仁 埴輪制作
三代 倭 讃
四代 倭 珍 讃兄弟
五代 倭 済
六代 倭 興
七代 倭 武 国造制度
八代 倭 継 武、異母兄弟
九代 倭 幼武
十代 倭 敏
十一代 倭 明
十二代 倭 峻
十三代 倭 孝 峻、兄弟
十四代 倭 聖
十五代 倭 豊美 聖、姉妹
十六代 倭 舒
十七代 倭 佐富
(兄弟、豊原 有秋)
十八代 倭 道子
十九代 倭 壱志 稚建、姉妹
二十代 倭 建 673年~

血統を重要視した為、倭 建天皇(天武帝)即位迄に兄弟で、大君に為ったのは5組だけです。

* by 邇波
倭 敏(敏達)→倭 明(用明)→倭 峻(崇峻)→倭 孝(孝徳)→倭 聖(聖徳)→倭 豊美(推古)→倭 舒(舒明)→倭 佐富(皇極)→倭 建即位予定が、蔓木 毛人の暗殺が有り中止

倭 建(大海人)の妻道子(額田)が即位
称制 倭 友(中大兄)
豊原 有秋(有間皇子)即位予定が死刑
称制 倭 友(中大兄)で白村江迄

聖徳の息子が、天武です。

Re: 良い考察為さってます * by 形名
邇波さま

コメントありがとうございます。

* by 邇波 某
初の女王 「推古天皇」
は、「聖徳太子」の実の姉で、記紀名に錦代が有りますが、
実名は、トヨミで豊美です。

意味・・・響み 豊明トヨアカリと関連してます。 新王朝4代目の現天皇家では豊明ホウメイ殿と読みを変えてます。

忍者を使ったと言われる「聖徳太子」の別名には「厩戸豊聡耳皇子」が有りますが、姉の名前と妻の実名(佐富。人里の意味)から創作された名前です。

因みに「聖徳太子」倭 聖が大君になって無いのは、イエスキリストが地上で王になって無いのに対応してます。

Re: タイトルなし * by 形名
邇波さん、コメントありがとうございます。

ご教授ありがとうございます。

* by 邇波 某
上宮(扶餘)と下宮(餘・・烏桓)
王の君の立場の争奪戦。

摩理勢の娘小手子は、峻大君に与えられ聖を儲け聖は、佐富により622年に建(大海人)を儲けます。

聖を毒殺した舒は、佐富により626年に友(中大兄)を儲けます。

建の即位を阻止する為、 餘 翹岐(中臣 鎌)は、即位式を行う法興寺(飛鳥寺)に向かう大人の蔓木 毛人を道端で暗殺します。 友は、建の館を包囲し、建の命の替わりに、妻道子(額田王)を引き渡す様にさせます。

餘 勇(塞城・百済王 善光)は人質として、倭国に来てましたが、百済で内乱を起こし流刑にされた翹岐(豊璋・中臣 鎌)が、流刑地から特使として来たと偽り蔓木 毛人(蘇我 入鹿)に面会を求めたが、勇は密告し、毛人は毒を盛り翹岐は、息子と従者を亡くし、百済大井に逃げ込み倭 友(中大兄皇子)との共闘を誓い忠臣として活躍します。

甘樫丘の邸宅から法興寺に倭 建即位式に向かう途上で中臣 鎌が、蔓木 毛人を道端で暗殺したのは、復讐も兼ねてました。

藤原とは、朝鮮語でホゼ(百済)・ワラ(倭)で、百済倭国を意味し白村江の戦いで、大敗北して百済遺民が日本に帰化しましたが、百済の王に和風の響きを与えた藤原の漢字を充て姓として賜りました。

伯済・百済国 餘氏

餘 毗(伯済 毗有)―慶(蓋盧)―隆(武寧)―聖(聖明)―季―宣―璋―翹岐(鎌。中臣朝臣)

餘 翹岐に3子有り

勝海(真人・定慧)
文忠(不比等)

藤原とは、朝鮮語でホゼ(百済)・ワラ(倭)で、百済倭国を意味し白村江の戦いで、大敗北して百済遺民が日本に帰化しましたが、百済の王に和風の響きを与えた藤原の漢字を充て姓として賜りました。

藤原氏 * by 邇波 某
藤原氏と摂関家は、繋がりが無いのです。

平安時代の初期は、自分の事を、「余は」と言い 時代が進むと自分の事を「麿*は」と言います。

*シリア語で殿下の意味です。

大物主系

餘 鎌ー文忠(不比等)ー真楯ー内萬呂ー福当萬呂(冬嗣)ー忠仁(良房)=藤原 忠順

大国主系

蔓木 毛人(蘇我 入鹿)ー神威 毛人ー諸雄ー忠峯ー峯雄ー賀茂 忠行ー慶滋 保胤ー藤原忠順(基経)ー忠平ー師輔ー兼家ー道長


蘇我 入鹿は、自分の子等を皇子呼ばわりしたと記述されてましたが、正しいです。

阿毎姓は * by 邇波 某
阿毎氏は、邪馬台ヤムトェ国の王系です。

阿毎 茁子(最後の王。倭 得玉に大敗。処刑)ー謄ー嘉ー哲ー満ー松野 津萬呂•••

大倭政権も邪馬台国後裔を自称してましたから、外交上、阿毎姓を語っただけです。

Re: 阿毎姓は * by 形名
邇波 さんコメントありがとうございます。

いろいろとご教授ありがとうございます。

時代の進展 * by 邇波 某
倭 継大君(継体帝)を殺害させた後、武大君の子を傀儡王に擁立する立場に有り、尾治(蔓木)山で鹿狩りをして、幼武の素質を見極め大君としました。 40歳を過ぎた倭 幼武大君(欽明帝)は、尾治の国造に蔓木 垂見の大人に任せます。

垂見は、入鹿屯倉を設置しました。 入鹿とは、怒る(イ ルシカ)の意味が有ります。 鹿(狩り)に拠って(君として政権に)入ったの略です。

垂見は娘の広子を、倭興の息子、明(大君を即位を辞退し続け
継大君(継体帝)が殺害されますと隠棲して、合議政治の大人の立場を得るべく土地を開拓し池を作り奔走し大人の地位を得てました) に与え、明は老年に尾治氏の土地を訪れ決意、垂見は倭 敏を毒殺させ大君として、明を即位させます。

垂見の子、摩理勢は明の子(娘小手子の婿)峻大君に尾治国造(直轄地)から大倭国造にされて、憤り殺害させます。

時代の進展2 * by 邇波 某
峻の息子、聖は叔父の孝が即位すると京に戻され太子として孝大君を補佐します。

孝大君の娘佐富が、年頃に為る迄、結婚は御預けでした。
遣隋使の派遣が失敗すると、孝大君は息子の豊原 有秋(有間皇子)を将軍として、派遣し大宰府に待機させますが、待機中に摩理勢に殺害されます。

聖は即位して遣隋使の派遣に成功します。外交の窓口の摩理勢も大人として、隋の役人と会いました。

聖大君は、隋に援軍を出させる事に成功しますが、隋は滅亡します。伯済の舒(舒明帝)は自らが大君に為らねば伯済の救援は為らぬと策略を巡らし、邇波氏の賛同を得る為に尾治国造の地位を蔓木一族に渡す様に迫り戦争を誘発させ二分する戦に為りました。

聖は結婚生活に入ったばかりで彼女は妊娠してました。
科野国造の洩矢 宮萬呂が聖大君の大将として到着する前に先制攻撃を受け物 多治見(物部 守屋)が戦死して、大伴 奈羅古の助言を捨て尾治国で再起を図らず捕縛されますと、舒は聖大君を毒殺し、蔓木 摩理勢の怒りを買います。

直ちに聖の姉、錦代(推古帝)を即位させ、国家非常事態に入ります。摩理勢は尾治国を再び戴きたいと申し出ますが拒否されます。

摩理勢の後、毛人が大人として治め始めます。 佐富の子、建が隠棲に三川に旅立つと、舒は佐富と結婚して大君の立場を得ます。

舒大君も、伯済救援計画や命長の元号を選択し、毛人の怒りを買い殺害されます。

時代の進展 3 * by 邇波 某
直ちに毛人は、佐富を擁立して即位させます。佐富は、毛人の子、神威 毛人に尾治国造とします。 建は、豊原 有秋の娘、道子と結婚します。 一方、佐富の息子の建の即位に備えさせ毛人は、娘の庄子を与えます。

建の即位式の日に自宅から、法興寺に向かう途上の道端で伯済 翹岐に暗殺されます。 倭 建も、舒の息子、友に軍兵に包囲され助命の為に妻道子を要求され、友に道子(額田女王)を渡します。

毛人の後、舒を支持して聖大君と戦った蔓木 小祚が、大人として治め始めます。道子を即位させて、友は慎重に称制として発言力を得ます。

邇波 倉梯萬呂は大人として、事態の悪化を塞ぐべく老年の豊原 有秋を大君に立てる為、大規模な兵力を集める準備に掛かりますが、発覚して、蔓木 雄物や雄当も奇襲され殺害されます。

豊原 有秋は主犯格として死刑にされ、倭 友は慎重に計画を進めさせます。

丹後國風土記 浦嶼伝承 * by 邇波 某
478年、雲龍山の麓、筒川庄水の江の里に住む青年、浦嶼子は一人舟で釣りに出て、五色の亀を釣りあげます。
青年がうたた寝をしている間に亀は絶世の美女に変身します。

嶼子は、何処から来たのか、と尋ねると、乙女は、風と雲に乗ってやって来た、と応えた。

嶼子は又尋ねた。その風と雲はどこから来たのか、問うと
乙女は、天の神仙の家からです。どうかそのことを疑わないで、相い語りあい愛しみあいましょう、と応えた。

彼女が神仙の娘であると知って恐れたが、乙女は、私の思いは、無窮の天地、永遠の日月と共に、永遠に添い続けようと思っています。
しかし、あなたはどう思っているのですか、と語った。
嶼子は、もとより我が心にもゆるみはない、と応えたのであった。

乙女は、舟を漕いで常世の国に参りましょう、と言った。

先ずは、倭 旨が、傀儡王として、豪族の邇波ニワ氏*(大国主=縄文人)に日本に招聘された事を表しています。

釣る事は誘致を意味します。
亀は、扶餘王族を差します

次に、扶餘王族の倭 興が、烏桓騎馬民族の百済王族を招聘した事を表しています。

倭 興大君の子、明は、父親の方針を貫き、開拓や治水の整備に人力して、信頼を勝ち得、大人(大臣)となり、邇波依網、蔓木 垂見、摩理勢大人から大君に擁立したいとの申し出を断り続けました。

父の興から、父親の姉妹達を娶った百済王族の入婿の武と繼に、大君を任せ、大人として、陰から大君の後方支援して来ましたが、老年に為り大君になりたく、位を譲る様に敏大君に揺さぶり掛けますが、敏大君に譲る気持ちが無く、豪族に暗殺させて、大君に即位しました。

この為、上宮家(扶餘王族)と宮家(烏桓百済王族)となり継承資格の争いが始まりました。 パラドックの蓋を開けたと言う話しです。

両面宿儺の話や二面岩は、この出来事を表現したものです。

浦嶼子と竹内宿禰は同一人物で、300年で繋がりを持たせて有ります。 300年に及ぶ内戦状態が続き勝利したのは、烏桓騎馬民族の百済王族の倭 弥照天皇です。

この300年間は、問題点を摩り替えて隠されて居ります。

政敵として、砒素で毒殺した事実を消したり、即位事実を抹消したり、兄弟同士の争いにしたり、崇仏論争だったと記述したりです

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良い考察為さってます

倭王は阿毎 多利思比孤号して阿輩弥という者、使を遣わして・・・

和哥弥多弗利で、高貴な血統を元に子を儲ける制限が課されてます。

王の妻は弥と号す。後宮には女六七百人有。太子を名づけて利歌弥多弗利と為す。

王は後宮を持ち対外的な倭王では無いと分かります。
そして利歌弥多弗利は、王の子です。

倭王とは大君で、王の君 つまり臣下です。 桓武天皇は、言います。 記紀には、「天皇が臣下になっているから正しく無い従って焼き捨てよ」

詰まりは、傀儡王で、実質的な王は、大人と呼ばれている事を示してます。

桓武天皇時代から大人を大臣と呼び大君を天皇としました。

人物はそれぞれ実名で

倭 聖大君(聖徳太子)
蔓木 摩理勢大人 (蘇我 馬子)
蔓木 毛人 (蘇我 入鹿)です。

次いでに子等を
長男 林 浜萬呂 神威 毛人 宗形 鳥萬呂
女子庄子(天武天皇の后)です。
2020-08-29-21:08 * 邇波 [ 編集 * 投稿 ]

実際の王名表

初代 倭 旨 346年~
二代 倭 仁 埴輪制作
三代 倭 讃
四代 倭 珍 讃兄弟
五代 倭 済
六代 倭 興
七代 倭 武 国造制度
八代 倭 継 武、異母兄弟
九代 倭 幼武
十代 倭 敏
十一代 倭 明
十二代 倭 峻
十三代 倭 孝 峻、兄弟
十四代 倭 聖
十五代 倭 豊美 聖、姉妹
十六代 倭 舒
十七代 倭 佐富
(兄弟、豊原 有秋)
十八代 倭 道子
十九代 倭 壱志 稚建、姉妹
二十代 倭 建 673年~

血統を重要視した為、倭 建天皇(天武帝)即位迄に兄弟で、大君に為ったのは5組だけです。
2020-08-30-21:07 * 邇波 [ 編集 * 投稿 ]

倭 敏(敏達)→倭 明(用明)→倭 峻(崇峻)→倭 孝(孝徳)→倭 聖(聖徳)→倭 豊美(推古)→倭 舒(舒明)→倭 佐富(皇極)→倭 建即位予定が、蔓木 毛人の暗殺が有り中止

倭 建(大海人)の妻道子(額田)が即位
称制 倭 友(中大兄)
豊原 有秋(有間皇子)即位予定が死刑
称制 倭 友(中大兄)で白村江迄

聖徳の息子が、天武です。
2020-08-30-21:21 * 邇波 [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: 良い考察為さってます

邇波さま

コメントありがとうございます。
2020-09-25-02:09 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

初の女王 「推古天皇」
は、「聖徳太子」の実の姉で、記紀名に錦代が有りますが、
実名は、トヨミで豊美です。

意味・・・響み 豊明トヨアカリと関連してます。 新王朝4代目の現天皇家では豊明ホウメイ殿と読みを変えてます。

忍者を使ったと言われる「聖徳太子」の別名には「厩戸豊聡耳皇子」が有りますが、姉の名前と妻の実名(佐富。人里の意味)から創作された名前です。

因みに「聖徳太子」倭 聖が大君になって無いのは、イエスキリストが地上で王になって無いのに対応してます。
2021-04-01-09:40 * 邇波 某 [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: タイトルなし

邇波さん、コメントありがとうございます。

ご教授ありがとうございます。
2021-04-01-11:13 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

上宮(扶餘)と下宮(餘・・烏桓)
王の君の立場の争奪戦。

摩理勢の娘小手子は、峻大君に与えられ聖を儲け聖は、佐富により622年に建(大海人)を儲けます。

聖を毒殺した舒は、佐富により626年に友(中大兄)を儲けます。

建の即位を阻止する為、 餘 翹岐(中臣 鎌)は、即位式を行う法興寺(飛鳥寺)に向かう大人の蔓木 毛人を道端で暗殺します。 友は、建の館を包囲し、建の命の替わりに、妻道子(額田王)を引き渡す様にさせます。

餘 勇(塞城・百済王 善光)は人質として、倭国に来てましたが、百済で内乱を起こし流刑にされた翹岐(豊璋・中臣 鎌)が、流刑地から特使として来たと偽り蔓木 毛人(蘇我 入鹿)に面会を求めたが、勇は密告し、毛人は毒を盛り翹岐は、息子と従者を亡くし、百済大井に逃げ込み倭 友(中大兄皇子)との共闘を誓い忠臣として活躍します。

甘樫丘の邸宅から法興寺に倭 建即位式に向かう途上で中臣 鎌が、蔓木 毛人を道端で暗殺したのは、復讐も兼ねてました。

藤原とは、朝鮮語でホゼ(百済)・ワラ(倭)で、百済倭国を意味し白村江の戦いで、大敗北して百済遺民が日本に帰化しましたが、百済の王に和風の響きを与えた藤原の漢字を充て姓として賜りました。

伯済・百済国 餘氏

餘 毗(伯済 毗有)―慶(蓋盧)―隆(武寧)―聖(聖明)―季―宣―璋―翹岐(鎌。中臣朝臣)

餘 翹岐に3子有り

勝海(真人・定慧)
文忠(不比等)

藤原とは、朝鮮語でホゼ(百済)・ワラ(倭)で、百済倭国を意味し白村江の戦いで、大敗北して百済遺民が日本に帰化しましたが、百済の王に和風の響きを与えた藤原の漢字を充て姓として賜りました。
2021-04-01-17:23 * 邇波 某 [ 編集 * 投稿 ]

藤原氏

藤原氏と摂関家は、繋がりが無いのです。

平安時代の初期は、自分の事を、「余は」と言い 時代が進むと自分の事を「麿*は」と言います。

*シリア語で殿下の意味です。

大物主系

餘 鎌ー文忠(不比等)ー真楯ー内萬呂ー福当萬呂(冬嗣)ー忠仁(良房)=藤原 忠順

大国主系

蔓木 毛人(蘇我 入鹿)ー神威 毛人ー諸雄ー忠峯ー峯雄ー賀茂 忠行ー慶滋 保胤ー藤原忠順(基経)ー忠平ー師輔ー兼家ー道長


蘇我 入鹿は、自分の子等を皇子呼ばわりしたと記述されてましたが、正しいです。
2021-04-01-17:26 * 邇波 某 [ 編集 * 投稿 ]

阿毎姓は

阿毎氏は、邪馬台ヤムトェ国の王系です。

阿毎 茁子(最後の王。倭 得玉に大敗。処刑)ー謄ー嘉ー哲ー満ー松野 津萬呂•••

大倭政権も邪馬台国後裔を自称してましたから、外交上、阿毎姓を語っただけです。
2021-04-01-23:20 * 邇波 某 [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: 阿毎姓は

邇波 さんコメントありがとうございます。

いろいろとご教授ありがとうございます。
2021-04-02-02:15 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]

時代の進展

倭 継大君(継体帝)を殺害させた後、武大君の子を傀儡王に擁立する立場に有り、尾治(蔓木)山で鹿狩りをして、幼武の素質を見極め大君としました。 40歳を過ぎた倭 幼武大君(欽明帝)は、尾治の国造に蔓木 垂見の大人に任せます。

垂見は、入鹿屯倉を設置しました。 入鹿とは、怒る(イ ルシカ)の意味が有ります。 鹿(狩り)に拠って(君として政権に)入ったの略です。

垂見は娘の広子を、倭興の息子、明(大君を即位を辞退し続け
継大君(継体帝)が殺害されますと隠棲して、合議政治の大人の立場を得るべく土地を開拓し池を作り奔走し大人の地位を得てました) に与え、明は老年に尾治氏の土地を訪れ決意、垂見は倭 敏を毒殺させ大君として、明を即位させます。

垂見の子、摩理勢は明の子(娘小手子の婿)峻大君に尾治国造(直轄地)から大倭国造にされて、憤り殺害させます。
2021-04-02-06:22 * 邇波 某 [ 編集 * 投稿 ]

時代の進展2

峻の息子、聖は叔父の孝が即位すると京に戻され太子として孝大君を補佐します。

孝大君の娘佐富が、年頃に為る迄、結婚は御預けでした。
遣隋使の派遣が失敗すると、孝大君は息子の豊原 有秋(有間皇子)を将軍として、派遣し大宰府に待機させますが、待機中に摩理勢に殺害されます。

聖は即位して遣隋使の派遣に成功します。外交の窓口の摩理勢も大人として、隋の役人と会いました。

聖大君は、隋に援軍を出させる事に成功しますが、隋は滅亡します。伯済の舒(舒明帝)は自らが大君に為らねば伯済の救援は為らぬと策略を巡らし、邇波氏の賛同を得る為に尾治国造の地位を蔓木一族に渡す様に迫り戦争を誘発させ二分する戦に為りました。

聖は結婚生活に入ったばかりで彼女は妊娠してました。
科野国造の洩矢 宮萬呂が聖大君の大将として到着する前に先制攻撃を受け物 多治見(物部 守屋)が戦死して、大伴 奈羅古の助言を捨て尾治国で再起を図らず捕縛されますと、舒は聖大君を毒殺し、蔓木 摩理勢の怒りを買います。

直ちに聖の姉、錦代(推古帝)を即位させ、国家非常事態に入ります。摩理勢は尾治国を再び戴きたいと申し出ますが拒否されます。

摩理勢の後、毛人が大人として治め始めます。 佐富の子、建が隠棲に三川に旅立つと、舒は佐富と結婚して大君の立場を得ます。

舒大君も、伯済救援計画や命長の元号を選択し、毛人の怒りを買い殺害されます。
2021-04-02-06:24 * 邇波 某 [ 編集 * 投稿 ]

時代の進展 3

直ちに毛人は、佐富を擁立して即位させます。佐富は、毛人の子、神威 毛人に尾治国造とします。 建は、豊原 有秋の娘、道子と結婚します。 一方、佐富の息子の建の即位に備えさせ毛人は、娘の庄子を与えます。

建の即位式の日に自宅から、法興寺に向かう途上の道端で伯済 翹岐に暗殺されます。 倭 建も、舒の息子、友に軍兵に包囲され助命の為に妻道子を要求され、友に道子(額田女王)を渡します。

毛人の後、舒を支持して聖大君と戦った蔓木 小祚が、大人として治め始めます。道子を即位させて、友は慎重に称制として発言力を得ます。

邇波 倉梯萬呂は大人として、事態の悪化を塞ぐべく老年の豊原 有秋を大君に立てる為、大規模な兵力を集める準備に掛かりますが、発覚して、蔓木 雄物や雄当も奇襲され殺害されます。

豊原 有秋は主犯格として死刑にされ、倭 友は慎重に計画を進めさせます。
2021-04-02-06:31 * 邇波 某 [ 編集 * 投稿 ]

丹後國風土記 浦嶼伝承

478年、雲龍山の麓、筒川庄水の江の里に住む青年、浦嶼子は一人舟で釣りに出て、五色の亀を釣りあげます。
青年がうたた寝をしている間に亀は絶世の美女に変身します。

嶼子は、何処から来たのか、と尋ねると、乙女は、風と雲に乗ってやって来た、と応えた。

嶼子は又尋ねた。その風と雲はどこから来たのか、問うと
乙女は、天の神仙の家からです。どうかそのことを疑わないで、相い語りあい愛しみあいましょう、と応えた。

彼女が神仙の娘であると知って恐れたが、乙女は、私の思いは、無窮の天地、永遠の日月と共に、永遠に添い続けようと思っています。
しかし、あなたはどう思っているのですか、と語った。
嶼子は、もとより我が心にもゆるみはない、と応えたのであった。

乙女は、舟を漕いで常世の国に参りましょう、と言った。

先ずは、倭 旨が、傀儡王として、豪族の邇波ニワ氏*(大国主=縄文人)に日本に招聘された事を表しています。

釣る事は誘致を意味します。
亀は、扶餘王族を差します

次に、扶餘王族の倭 興が、烏桓騎馬民族の百済王族を招聘した事を表しています。

倭 興大君の子、明は、父親の方針を貫き、開拓や治水の整備に人力して、信頼を勝ち得、大人(大臣)となり、邇波依網、蔓木 垂見、摩理勢大人から大君に擁立したいとの申し出を断り続けました。

父の興から、父親の姉妹達を娶った百済王族の入婿の武と繼に、大君を任せ、大人として、陰から大君の後方支援して来ましたが、老年に為り大君になりたく、位を譲る様に敏大君に揺さぶり掛けますが、敏大君に譲る気持ちが無く、豪族に暗殺させて、大君に即位しました。

この為、上宮家(扶餘王族)と宮家(烏桓百済王族)となり継承資格の争いが始まりました。 パラドックの蓋を開けたと言う話しです。

両面宿儺の話や二面岩は、この出来事を表現したものです。

浦嶼子と竹内宿禰は同一人物で、300年で繋がりを持たせて有ります。 300年に及ぶ内戦状態が続き勝利したのは、烏桓騎馬民族の百済王族の倭 弥照天皇です。

この300年間は、問題点を摩り替えて隠されて居ります。

政敵として、砒素で毒殺した事実を消したり、即位事実を抹消したり、兄弟同士の争いにしたり、崇仏論争だったと記述したりです
2021-04-02-06:41 * 邇波 某 [ 編集 * 投稿 ]