FC2ブログ

東国の古代史

Top Page › 中世東国史 › 高崎市山名の里にて『山名義範』《高崎市》
2010-02-06 (Sat)  00:17

高崎市山名の里にて『山名義範』《高崎市》

天気もよいので、自宅から近い高崎市山名町というところへ運動を兼ねて自転車で出かけました。ここには上野三碑の一つ、山上碑と山上古墳が在るのですが、今日の目的はもっと山奥にある『山上西古墳』と呼ばれる古墳です。この古墳はマイナーで存在を知っている人は少ない。山上古墳の次に構築されたと云われていますが、地元の古老でさえ聞いても分からない古墳です。見学できるようにはなっておらず、原則、立ち入り禁止の国有林の中にあります。

          
高崎市山名の里にて1
山名から北方に見える上越新幹線と赤城山


山名の幹線道路は細くて危険なので、自転車で走るときは何時も住宅街の路地を走ります。高崎市は田舎街ですが、特に山名町という場所は古い家並みが目立ちます。裏通りを走ると、山名八幡宮という神社があります。これは『山名義範』という鎌倉時代の武将が創建しました。
山名義範の正式名は『山名三郎源朝臣義範』です。れっきとした源氏の武将で、鎌倉幕府で伊豆守も務めました。群馬には源氏の武将が多かったので、彼らが信奉した八幡神社が数多くあります。鎌倉街道に沿う山名は八幡宮の門前町で、安中市の東山道板鼻宿と同様に栄えた場所です。



高崎市山名の里にて2
山名八幡宮


山名氏は新田氏や里美氏とともに、『源義重』の血を引く武家です。義重は源氏の棟梁として有名な『八幡太郎義家』の孫にあたります。義重は初め、山名から近い寺尾に居城を構えていましたが、後に新田郡に移り『新田義重』となります。一般には義重は関東に下向すると、すぐに新田荘に入ったと云われていますが、実は高崎西北部の八幡荘を拠点にしていた時代もあるのです。
新田氏といえば鎌倉幕府を滅ぼした『新田義貞』が有名です。義貞は、新田氏と兄弟筋にあたる足利氏の両方の血を引く子孫です。山名氏の方では室町時代まで下りますが、大名の『山名宗全』が有名です。
平家によって伊豆に流された『源頼朝』は成人すると鎌倉を拠点にして源氏再興のため平家打倒の旗をひるがえします。このとき、いち早く鎌倉に馳せ参じ頼朝の側近になったのが、新田義重の子と孫にあたる『山名義範』と『里美義成』です。二人は伯父と甥の関係にあります。
『新田義重』は同じ源氏でも頼朝には対抗意識があったようで出仕が遅れました。本来、河内源氏の嫡流は頼朝の血筋になりますが、頼朝の曽祖父源義親は平家に討たれ、頼朝自身も流人の身でしたから、義重は自分の血筋が家督筋になると考えていたのではないかと云われている。
しかし、実状は頼朝に従って蜂起し、結果的に滅びてしまう危険性を考え、一族が生き延びるためにリスク分散を図ったとものと私は思います。中世~戦国時代の武士の生き残り策です。そのせいで、義重は、生涯、頼朝に冷たく扱われたそうです。結果的には、頼朝の蜂起は成功し、義重の息子の『山名義範』と孫の『里美義成』が頼朝の下で活躍したのですから、氏族としての戦略は成功したと云ってもよいでしょう。

話がだいぶ逸れましたが、戻します。


最近の山名は典型的な寂れた街並みですが、丘陵中腹には新興住宅が目立つようになりました。でも人口がやはり少ないそうで、付近には買い物するところも無い場所です。特に山ノ上古墳や山ノ上碑のある丘陵南東部は本当に寂しい山村です。日が暮れたら独りでは歩くのも怖い。
しかし、位置を地図で確認してこなかったせいで、『山ノ上西古墳』は幾ら探しても見つからない。自転車を置いて、徒歩で登ってみますが分かりません。遊歩道があってたまに人が歩いているのですが、地元の人ではないので何も知らない。最後の頼みで山を下り、民家の老人に聞きましたが、予想どうり話が通じません。^^ゞ
これは出直したほうが良さそうです。こんな山中でうろうろしてるとイノシシに遭いそう。畑の中は人の足跡よりイノシシの方が多い。

私のテリトリーは9世紀までなんですが、冒頭で12世紀の話にも触れたので、ついでに山ノ上古墳の入口近くにある古い阿弥陀様を紹介します。^^

高崎市山名の里にて3
阿弥陀如来の板碑

左の座像には明和6年(1770年)と刻んであるので江戸時代のものです。真ん中には梵字?を刻んだものがありますが読めません。(^^ゞ
そして右側の鉄扉の中のものが板碑です。説明版によると建治4年、1278年、鎌倉時代のものです。群馬県で一番古い阿弥陀様は小島田町というところにある供養碑で1240年の建立だそうです。これは38年後ですが、それでも十分に古いです!こんな民家の庭先に700年以上も建っているのですから何か感動してしまいます。この阿弥陀様はいったい何世代の人間の生き死にを見てきたのでしょう。

高崎市山名の里にて4
阿弥陀如来板碑の説明版

せっかくですから写真に収めたいですが鍵が掛かっています。上のほうにある小さな穴からレンズ入れてシャッターを押します。阿弥陀様のお顔は撮れませんでしたが、放射状の輪光が写ってます。フラッシュなど焚いて申し訳ありません。南無阿弥陀仏。

高崎市山名の里にて5
板碑の部分撮影

現在の群馬県は真言宗の寺が多いですが、山名にはめずらしい時宗のお寺があります。
前述の『山名義範』の居館があった場所に建つ光台寺です。実は新田氏は時宗を信仰していたようです。新田郡のほうでも時宗の寺が幾つもあるとか。


高崎市山名の里にて6
山名イーストタウンの近くにある光台寺境内

時宗というのは上人(しょうにん)が遊行(ゆぎょう)しながら布教活動を行ったそうです。ですから鎌倉時代から交通の要衝であった高崎には時宗が栄えていたらしいです。時宗は鎌倉時代に一遍上人が興した浄土宗の一宗派です。宗教には疎いのですが、浄土宗ですから阿弥陀如来を信仰するはずです。おそらく山名の地も鎌倉時代から阿弥陀信仰が盛んだったのでしょう。




関連記事
スポンサーサイト



No Subject * by nonokomama
こんばんは。
山名氏も新田の一族でしたね。
新田郡尾島町岩松の青蓮寺も時宗の寺です。
岩松氏館跡の雰囲気の残ったお寺で、付近に新田氏の名残りの遺跡があります。
昔の尾島中学校はこの寺のすぐ西にありました。
そのころのお寺の和尚さんは、中学の先生をしていました。
存命ならば90歳以上です。


Re: No Subject * by 形名
新田義重の子供の幼名は、久保田順一氏によると、
里見義俊=新田太郎
新田義兼=新田次郎
山名義範=山名三郎、新田太郎三郎
得川義季=得川四郎
などから、山名氏は三男であろうと言ってますね。この辺りは、母親の出自も影響するので実態はよく分からないのでしょう。

岩松地域も nonokomamaさんの実家近くなんですね。尾島から西方の岩松方面は私にとっては、まだ未開拓地域ですね。青蓮寺も義国ゆかりの寺というのは、新田氏に関する本で読んだ覚えがあります。岩松氏は新田嫡流筋の義兼の娘と足利氏の婚姻で生まれた系譜でしたね。傍流には違いないが、義兼の妻は財産を岩松氏に譲っており、新田十三郷の中では豊かであったと本で読みました。青蓮寺も岩松氏菩提寺?として繁栄していたんでしょう。

話は飛びますが、岩松氏開祖の父である足利義純は、後に子供と離れて桓武平氏系の畠山氏に入婿になったようですね。此れが源氏系畠山氏の始まりだと、これも本で読みました。この辺りの経緯も面白そうです!青蓮寺も何れ訪問してみます。

Comment-close▲

Comment







管理者にだけ表示を許可

No Subject

こんばんは。
山名氏も新田の一族でしたね。
新田郡尾島町岩松の青蓮寺も時宗の寺です。
岩松氏館跡の雰囲気の残ったお寺で、付近に新田氏の名残りの遺跡があります。
昔の尾島中学校はこの寺のすぐ西にありました。
そのころのお寺の和尚さんは、中学の先生をしていました。
存命ならば90歳以上です。

2020-05-11-23:18 * nonokomama [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

新田義重の子供の幼名は、久保田順一氏によると、
里見義俊=新田太郎
新田義兼=新田次郎
山名義範=山名三郎、新田太郎三郎
得川義季=得川四郎
などから、山名氏は三男であろうと言ってますね。この辺りは、母親の出自も影響するので実態はよく分からないのでしょう。

岩松地域も nonokomamaさんの実家近くなんですね。尾島から西方の岩松方面は私にとっては、まだ未開拓地域ですね。青蓮寺も義国ゆかりの寺というのは、新田氏に関する本で読んだ覚えがあります。岩松氏は新田嫡流筋の義兼の娘と足利氏の婚姻で生まれた系譜でしたね。傍流には違いないが、義兼の妻は財産を岩松氏に譲っており、新田十三郷の中では豊かであったと本で読みました。青蓮寺も岩松氏菩提寺?として繁栄していたんでしょう。

話は飛びますが、岩松氏開祖の父である足利義純は、後に子供と離れて桓武平氏系の畠山氏に入婿になったようですね。此れが源氏系畠山氏の始まりだと、これも本で読みました。この辺りの経緯も面白そうです!青蓮寺も何れ訪問してみます。
2020-05-12-00:55 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]