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東国の古代史

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2010-04-17 (Sat)  19:03

切石積み石室の終末期古墳《高崎市》

多胡薬師塚古墳と多比良古墳を見てきました。この2つは共に小規模な古墳ですが、吉井町が甘楽郡に属していた頃から有名な古墳。しかし、両者とも非常に分かり難いところにあります。案内標識も少ないので、注意しないと見落とします。
吉井町は渡来人が移住してきた地域ですが、古墳の数は多くはありません。藤岡市北西部の平野部には白石古墳群があるのですが、吉井丘陵は少ない地域です。開発が進んでいる地域でもないので、元から少なかったのでしょう。住居遺跡などは多いので、古代に過疎であったとは考えられないから大きな墓をつくる文化がなかったのかも知れません。吉井丘陵はなだらかな丘が続く美しいところです。




■多胡薬師塚古墳

高崎市吉井町字吉井川というところにあります。なだらかな丘の上の民家に接した小さな円墳です。細い路地を入ったところにあり、人目に付くことはありません。墳丘の写真も撮ったのですが、ピンボケだったので一枚目の写真は高崎市のホームページのものです。










墳丘の南側に開口する横穴式石室で、古くから開口していたとのこと。石室の石材はこの地方特有の牛伏砂岩で切石積み手法で丁寧に造られています。7世紀後半の終末期の特徴がよく出ています。墳丘については未調査らしいですが、直径約25.0m、高さ約3.5mほどの円墳です。

■多比良古墳(諏訪前古墳)

高崎市吉井町字多比良というところにあります。地元では諏訪前古墳と呼ばれており、案内標識にもそう書かれています。多比良古墳という名前は古墳の調査を行った群馬大学の尾崎喜左雄教授が名付けたようです。
ここも村の中を不審者のごとく見回していないと見つかりません。村人に会ったら挨拶しておくことです。民家の畑の中にあるのですが、中に入って見学できるようになっていません。土地の所有者のおばさんに断って畑の中で写真を撮らせてもらいました。暗すぎて石室内部は写真がブレてしまいました。説明版にもあるように盛り土がなく、さしずめ、吉井のミニ石舞台古墳とでも云えそうです。
















両古墳の特徴

石室石材は多胡碑と同じ牛伏砂岩を使用しています。主軸は北西-南東で石室入口は南東にあります。墳丘の土があった時は直径12m程度の大きさだったようです。加工は精巧な切石であると高崎市のホームページで説明していますが、外観からはそれ程には見えません。石室の中をのぞくと、切石積み手法を使っており丁寧に作られているのが分かる。この古墳も古墳時代終末期の7世紀後半と考えられています。

多胡薬師塚古墳、多比良古墳の石室は総社古墳群の宝塔山古墳や蛇穴山古墳と同じく、截石切組積(きりいし・きりくみづみ)の石室です。学術用語で“切り石を組み合わせながら積み上げた”という意味。
山名にある山ノ上古墳や赤城南麓の堀越、中塚古墳なども同様です。これ等は7世紀の第3四半期~第4四半期の築造ですが、相違点もあります。宝塔山古墳や蛇穴山古墳は唐尺を用いているのですが、吉井町や赤城南麓では高麗尺が用いられているそうです。高麗尺よりも唐尺のほうが新しい。高麗尺:唐尺=1:1.2の比率とされてるので、高麗尺の5尺は唐尺の6尺です。しかし、多くのサンプルを検証しないと、物から使用された尺度を割り出すのは難しい筈。すっぱり1尺単位に物をつくるとは限りませんから。それに、高麗尺自体が存在しないという説もあるので一概に尺度が違うとは断定できないと思います。

私は尺度の違いよりも、石材の加工職人の技術力の違いと捉えればよいと思います。技術的には唐尺使用と云われている石室加工の方が、より高度な技術です。総社古墳群の記事で紹介した写真と見比べても分かります。
上毛野国のなかでも高度な職人を抱えた支配者氏族と、それを取り巻く地方服属氏族の違いが出ていると考えています。総社古墳群の主達は石材加工職人を畿内より招請していた可能性もあるでしょう。7世紀中葉は遣唐使が盛んな時期ですが、中国から導入した新しい尺度は先ずは畿内で普及し、中央貴族の治める地方に伝播していったと思います。



了                             





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