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東国の古代史

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2010-04-10 (Sat)  19:08

放光寺と放光神社 - 郷土主義の弊害 -

郷土主義というと難しいですが、“郷土愛”、または、“郷土自慢”という意味で使ってます。よい言葉だと思いますが、郷土主義も行き過ぎると弊害もあります。特に最近は、“町おこし”などと称して、本来、その地方にあった文化に行き過ぎた脚色をしたり、または、勝手に創作したりと。薄っぺらな観光土産的な発想が目立ちます。
 身近な歴史の中にも郷土主義が見え隠れする場合があります。まだ“町おこし”なら、薄っぺらで済みますが、歴史に関しては問題です。それは、かってあった考古学界での石器捏造や、古くは『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』偽書事件などにも似た危うさを孕んでいます。
 山王廃寺の記事の中で、この寺が古代に存在した放光寺である事について紹介しました。それは、昭和50年代の学術発掘によって、山王廃寺跡から「放光」とヘラ書きされた瓦が多数発見されたからでした。しかし、実をいうと次の3点の遺跡と文献から、放光寺という寺が存在していたのは古くから予想されていたことでした。
 
(1)山ノ上碑
西暦681年に建立された碑文に、放光寺の僧によって碑が造られた事が記述されている。この碑からは放光寺の場所に関する情報はうかがえないが、放光寺創建が7世紀中葉から後期まで遡れる事は明確。
 
放光寺と放光神社郷土主義の弊害1 
碑文の拓本
 
 
(2)『上野国交替実録帳(九条家本延喜式裏文書)』
 長元三年(1030年)に上野国の介である藤原家業が藤原良任と交替する際に交わした不与解由状で、通称『上野国交替実録帳』には次の記述がある。
 
  「放光寺、件の寺、氏人の申請により定額寺と為さず、よって除き放つこと
   すでに了りぬ」
 
放光寺と放光神社郷土主義の弊害2 
国宝「上野国交替実録帳」 東京国立博物館所蔵
 
 
この記録は、放光寺が従来、定額寺(朝廷が正式に認定した寺)として扱われてきたが、(恐らく衰退してしまったために)、今後は定額寺から外すと決定した事を述べている。

この記述から以下の点が判断できる。
 ①放光寺が実在したこと
 ②定額寺であるからには相当な規模の寺社であること
 ③11世紀に入るころには寺は衰退していたこと
 ④創建した地方豪族は現地で衰退したか、他の地方へ移動したと推定できること
 
また、この記録は次項であげる後の時代の神名帳の中において、その神格が低い事と関連していると思われる。
 
 
(3)『上野国神名帳』
群馬県の古い神社一覧ですが、一番古い写本である総社本は13世紀のものであり、平安時代には既に原本は存在したと考えられている。『上野国神名帳』は通称で正式な名称は『上野十四郡諸社神名帳』である。前橋市の総社神社の御神体として所蔵されている。『上野国神名帳』の群馬東郡の項には「放光明神」という神名が記載されている。つまり、群馬郡に放光神社があったということ。
 
『上野国神名帳』は原本を見ると分かるが、東山道を起点として、その記載は地区毎に実に整理されてる。現在の地図と正確な対比はできないが、近代・現代まで存在した神社名と比較検討することで、そこに含まれる神社の位置は絞り込む事が可能だ。この神名帳は当時の群馬県内の群配置を推定する上でも貴重な資料となっている。
群馬西群が榛名山白川流域の東南裾野周辺にあたることから、群馬東群は渋川市からに前橋北西部に位置すると推定できる。 
 
 
放光寺と放光神社郷土主義の弊害3 
『上野十四郡諸社神名帳』 通称「総社本」(県指定重要文化財)
 
【補足】
日本に仏教が広まった頃は、仏教を本質的に理解する事ができず、仏はそれまでの信仰対象であった神と同質のものという考え方がありました。これを神仏習合思想と呼びます。つまり仏も多数の神の中の一つと捉えたわけです。しかし、やがて仏教の本質が理解されると、仏の地位は高まり、神も人も、仏に帰依すべきものという考えが生まれます。更には、人は仏に帰依し、神は仏を守護するものという思想に変わっていきます。この結果、寺とその寺を守護する神社がセットになって出来るようになります。つまり放光明神は放光寺の守護神の可能性が高い。
 
 
ただ、放光寺と放光神社の場所は、群馬東郡の中というだけで正確な場所までは分からなかった。実は昭和初期から山王廃寺跡では、「放光」のヘラ書き文字瓦は発見されていたのです。でも、学術発掘ではなかったため、そこを放光寺と主張する人はいなかったそうです。それよりも、山ノ上碑に埋葬された人物が佐野三家一族であったため、放光寺は佐野三家の氏寺であり、場所は墓から近い群馬郡上佐野村にあった筈という思いが強かったようです。
 
実際、江戸時代の国学者である、狩谷えき斎(かりや えきさい)や伴信友(ばん のぶとも)は放光寺は佐野の地にあったのではないか?と著書に記しています。明治時代に入ると、国文学者の井上通泰(いのうえ みちやす)は二人の説を受けて、具体的に上佐野の定家神社の近くにあったとされる放光山天平寺が元の放光寺であったと推定しています。放光山天平寺というのが、どんな縁起のある寺なのか不明ですが古い時代に在ったと伝承されていたようです。しかし、実際に放光寺に相当する寺跡が見つかっていた訳ではなく、想像の域を出ないものだった。
 
多分、このような学者の意見を聞いていた当時の上佐野村の村長や名士たちは嬉しくなってしまい、我が村に誉れ高い放光寺と神社があればいい。いや、建立したいと考えたと思います。そして、実際に造ってしまったのが佐野放光神社ではないかと思います。寺は檀家と資格のある坊さんが揃って初めて成り立つが、神社は氏子組織による資金調達ができれば可能です。既存神社組織の傘下に入る必要もない。
以下画像は放光神社の社です。上佐野公民館の敷地にあるこじんまりした社です。
 
放光寺と放光神社郷土主義の弊害4 
 佐野放光神社

すぐ近くには、放光寺記念碑がたっていて、放光寺の礎石と云われているものもあります。社のみすぼらしさに対して碑のほうは立派です。碑文裏書によると「奈良時代に既に(土地が)開けて、大化改新より前に屯倉が設置され、(屯倉の管掌者であった)佐野三家の子孫はこの地にあって、放光寺を建立し氏寺とした」と記載されています。放光寺の跡地であろうと思われた場所に建立したわけです。
 
放光寺と放光神社郷土主義の弊害5 
 放光神社記念碑
 
第二次大戦前の昭和初期、伊勢崎市出身の考古学者である、相川龍雄(当時は遺跡調査員)は実際に放光山天平寺があったとされる場所を発掘調査しています。その結果、寺跡は検出されず、単なる古墳の跡と判明したそうです。
 
【補足】
相川龍雄という人は、早稲田大学の出身で、明治大学の考古学者である故後藤守一教授と共同研究などを行った事のある人物です。伊勢崎市の上植木廃寺の発掘調査にも尽力しています。彼は40歳で戦死してしまいましたが、精力的に発掘調査を行っており、その実力は確かだったようです。最近、子息の相川達也さんという人が、父親の龍雄氏の事績を纏めた本を出版しています。因みに、後藤守一は現在の明治大学考古学研究室の石川日出夫教授や大塚初重名誉教授の恩師に当たる学者です。
 

結局、現在の高崎市上佐野町にある放光神社は明治初期に放光寺の伝承に基ずいて捏造された疑いが濃厚です。結果的には前橋市の山王廃寺が放光寺であると判明したわけですが、もしそうならなかったら、佐野の捏造神社が今でも推定放光寺とされていた可能性もあったわけです。顕彰のつもりで建立したのでしょうが、この手の顕彰と捏造は紙一重。地元人の郷土愛というか、郷土主義も程々にしないと困るというのが実感です。 

放光寺と放光神社郷土主義の弊害6 
           放光寺と確定した山王廃寺の構造(クリック拡大)


余談ですが、上佐野には放光神社のすぐ近くに『常世神社』というのもあります。
 
放光寺と放光神社郷土主義の弊害7 
常世神社

これは、能の演目『鉢木』に登場する佐野源左衛門常世という武士の屋敷跡と云われています。一族の不正のために領地を横領され、窮迫の生活をしていた佐野源左衛門常世が大雪の日に宿を頼んだ修行者のために、秘蔵の盆栽「鉢木」を焚いてもてなした。実はこの修行者は鎌倉幕府執権北条時頼の隠れ身で、後に時頼から表彰され、失った領地も恩賞として戻されたという失地回復の物語です。物語は出家した北条時頼の廻国伝説に基づいて創作されたものです。
廻国伝説そのものも、鎌倉幕府の中枢部が権力者である時頼を称えるために創作させた物語であり、それらは当時作られた謡曲文学と一体となっている。従って、物語を史実と捉えるのは正しい歴史認識ではない。確かに佐野氏一族は実在するが、本領は下野国である栃木県佐野市です。なぜか佐野市には墓があるようですが、佐野源左衛門常世は実在の人物ではありません。従って、群馬県の佐野に屋敷跡があるわけもなく、常世神社も物語を基に捏造された疑いがあります。これも同じ地元上佐野の名士達の仕業ではないでしょうか?

こんな事例は、日本中にあるだろうことは想像できるが、結局、このような行為は自分たちの住む郷土の文化を貶めるものだと思います。郷土文化を愛するなら、事実をありのままに伝えることこそ重要で「顕彰」と「脚色」の意味を混同してはならないでしょう。
 
 


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No Subject * by nonokomama
こんばんは。
ロマンが好きなのは、新里の人だけでないんですね。
新里の人は本当にロマンが好きです。
歴史の専門家に指摘されても、ロマンに酔いしれる方を選んでます。
まあ、単に勉強嫌いなだけかもしれませんけど。
放光寺にも、ロマンが過ぎた話があったのですね。

Re: No Subject * by 形名
nonokomama さん、おはようございます。

コメントコメントありがとうございます。
日本人は地元自慢が旺盛な国民性かも知れませんね。
極端な例が邪馬台国論争だと思います。
九州論者は9割以上が九州出身者か九州の大学に所属
する人ですね。大和論者はそれ程比率は高くないが、同じような
傾向にあるのは確かでしょう。
また、史跡?を作ってしまう人々も元々捏造の意識はなく、顕彰
のつもりですから罪はないのです。
問題は世代を重ねた後のことですね。伝承というのは尾ひれが付き
ますから、いつの間にか歴史証拠の候補になってしまう事も無き
にしも非ずというところです。
新里の人もご多分に漏れずですかね。笑

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No Subject

こんばんは。
ロマンが好きなのは、新里の人だけでないんですね。
新里の人は本当にロマンが好きです。
歴史の専門家に指摘されても、ロマンに酔いしれる方を選んでます。
まあ、単に勉強嫌いなだけかもしれませんけど。
放光寺にも、ロマンが過ぎた話があったのですね。
2020-05-24-22:49 * nonokomama [ 編集 * 投稿 ]

形名 Re: No Subject

nonokomama さん、おはようございます。

コメントコメントありがとうございます。
日本人は地元自慢が旺盛な国民性かも知れませんね。
極端な例が邪馬台国論争だと思います。
九州論者は9割以上が九州出身者か九州の大学に所属
する人ですね。大和論者はそれ程比率は高くないが、同じような
傾向にあるのは確かでしょう。
また、史跡?を作ってしまう人々も元々捏造の意識はなく、顕彰
のつもりですから罪はないのです。
問題は世代を重ねた後のことですね。伝承というのは尾ひれが付き
ますから、いつの間にか歴史証拠の候補になってしまう事も無き
にしも非ずというところです。
新里の人もご多分に漏れずですかね。笑
2020-05-25-07:17 * 形名 [ 編集 * 投稿 ]