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東国の古代史

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2019-08-07 (Wed)  11:00

下り参道は神の封印か? (4/4) - 貫前神社の地形 -

ネタばらしが先行しましたが、貫前神社の現地踏査を実行しました。旧参道の北側から入ってみようと思いましたが、現在の南側参道もしばらく見ていないので、こちらからアプローチしてみます。
 
 
下り参道は神の封印か9
 南参道入口付近
 
丘稜の南側を走る県道から入った直後の参道です。桜の木が両側に植えられています。
自動車の侵入禁止標識はないので車でも入って行けそうです。
 
 
下り参道は神の封印か10
 参道途中にある広場(駐車場)

参道を抜けるとちょっとした広場があって階段になります。車や自転車は左側に道路が回り込んでいるので問題はありません。でも急な坂で自転車は押して登ることになります。 
 
 
下り参道は神の封印か11
 階段上から見える富岡市町並み

階段を登りきると南側に西上州の山々が迫っています。もう紅葉も終わりですが、中々眺めが良いです。

 
下り参道は神の封印か12
 階段正面から見える西上州山塊

正面に見える先端が少し突き出た山が西御荷鉾山(にしみかぼやま)です。

 
下り参道は神の封印か13
 南西方向に見える稲含山

本来の抜鉾神社のご神体である稲含山は写真の右手にある二こぶ山です。稲含山には稲含神社があり、祭神は経津主神となっています。物部系である石上部氏の祭神です。


下り参道は神の封印か14
 咲前神社、貫前神社、稲含山の位置関係

かっての抜鉾神社は、安中市の咲前神社(さきさきじんじゃ)からこの地に遷座し、さらに御神体である稲含山までを一直線に結んだ形になっています。群馬大学の故尾崎博士が提唱したように、この地が選ばれたのは方位設計によるものなのでしょうか。咲前神社抜鉾神社稲含山を一直線で結びたかったため、新たに創建した抜鉾神社は、元々あった貫前神社の至近距離に偶然配置される事になったということになります。両者が余りにも近過ぎたため、後の時代に同一神社として誤解される事態になったと考えると確かにスジは通ります。


下り参道は神の封印か15
位置決めに使われたと推定する山

当時は厳密な測量など行っていた訳ではないと思いますが、方位は背景の山を目印にしていたと思われる。貫前神社は、稲含山の方位線と、咲前神社の方位の目印になる榛名山系水沢山の方位線が直線となるように位置決めされた可能性が高いでしょう。カシミール3Dで確認したところ、貫先神社からどの山も視認できます。


下り参道は神の封印か16
 貫前神社総門

振り返って神社に向かうと、丘稜の稜線を走る道路に出ます。赤い総門が神社への降り口です。稜線を走る道路を右側へ向かうと丘陵の東端にも鳥居がありますから、この自動車道路は東参道と云うわけです。

 
下り参道は神の封印か2
貫前神社への下り階段

これが有名な下り参道です。なだらかな下りではなく非常に急な坂です。登り参道だと社の奥行きは見えませんが、この神社は社殿が把握しやすく、階段を下りながら神域に入る心の準備のような時間が感じられます。もう夕方で参詣してる人もいませんから閑散としてます。
 
 
下り参道は神の封印か17
 階段途中からみる桜門
 
 
下り参道は神の封印か18
左:本殿  右:拝殿 

右側がこの神社の拝殿で、左側が本殿になります。本殿の造りは独特のもので国指定文化財となっているとのこと。しかし、ご神体は稲含山なのに本殿があるなんておかしいです。普通は拝殿だけになるはずですが。
新しい南からの参道に合わせて拝殿の向きを変えてしまった結果、参拝者はご神体の方向を向いていないことになります。本来の御神体が参詣者の背中側にあるのはやはり奇妙です。奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)の御神体は三輪山なので本殿は無く、拝殿から山を仰ぐようになっています。貫前神社の場合も向きを変えなければ、それが可能だったはずです。こういうところが大神神社のような原始神道商業神道の違いなのかも知れない。
苦肉の策として、本殿には稲含山の方向に雷神小窓という窓が開いています。おそらく、あらぬ方向を向いて参拝しても祈りは小窓から稲含山に向かうという仕掛けなんでしょう。潜望鏡じゃあるまいし。 

 
下り参道は神の封印か19
 本殿裏の斜面にある巨木

拝殿の裏にまわると巨木がうっそうとしてます。中には創建当時からの木もあるのでしょうか。御神木なのか、しめ縄を巻いてる木もあります。本殿後方の『藤太杉』は、藤原秀郷(俵藤太)が関東で反乱を起こした平将門討伐の際に参拝し、自分の年齢数(三十六)の杉苗を奉納したが、その杉の一本が残っていると伝えられる。将門の乱平定は西暦940年ですから、樹齢1080年に近いということになります。
この杉の巨木を見て、この神社がかっては北向きであったことは納得できた気がします。年輪調査をしてみないと分かりませんが、本当に藤原秀郷が奉納した杉だとすれば、神社の本殿裏手にあるのはちょっと解せない。時の有力武将である人物が奉納したものであれば境内の前方や参道に植えられるような気がします。巨木が北側に集中してるのは、北側が創建当時の参道だったからでしょうか。
 
 
下り参道は神の封印か20
 寿命を迎えて枯れた檜
 
 
下り参道は神の封印か21
本殿裏から北に下る細い道

さて、本殿の裏手からが本来の北側参道になるのですが、まっすぐな道があるわけではありません。幅1mほどの細い山道が九十九折れに連なっています。
このような道が参道であったとは思えません。かっては石段などがあったか、または、神社の向きを変える時に境内の敷地を広げるために土砂を積み上げた結果、なだらかだった道が崖のような急斜面に変わってしまったのかも知れません。
  

下り参道は神の封印か22
旧参道と思われる道 

気持ちの悪いうっそうとした林を抜けると、踏み痕がしっかりついた道に出ます。
しかし、ここが参道であったと思えないような風景に変わってしまっている。

 
下り参道は神の封印か23
旧参道入口

地形が平坦になると参道であったのも頷けるような落ち着いた雰囲気になります。
しかし、神社が山の北側にあるというのは珍しいかも知れません。安中市を走る東山道本線からの支線はこの神社に向かって伸びていたらしいので、支線道路を基準に立地を考えたのでしょうか。確かに前述の方位設計のとおり、ご神体のある南に向いて参拝するのが自然ですから、拝殿を高い位置に置くためにも山の北側に造ったと考えると理解しやすいです。 
  
 
神社境内より裏手に下りてから、ゆっくり歩いても10分はかからない距離です。現在は、この北側からは神社の姿は木々に遮られて見る事はできません。ただ異様に太い木があるので、ちょっと普通の山林とは違うなという雰囲気があるだけです。 旧参道に関する説明板のようなものは無いかと探しましたが見つかりませんでした。
 
最後に踏査した南側参道入り口から、旧参道と云われている北側丘稜北面の森をgoogleEarthで示します。現在の神社の裏手にあたる北側の森はけっこう広く、旧参道にふさわしい事がわかります。現在は、神社総門前を通る丘稜の稜線沿い道路があるため、南からの新参道に趣はありません。写真下端が南参道の入口になります。
 
 
下り参道は神の封印か24
一之宮貫前神社のGoogle画像

 

【参考引用資料】
■『上野国神名帳の研究』 尾崎喜左雄著  尾崎先生著書刊行会
『上野三碑の研究』   尾崎喜左雄著  尾崎先生著書刊行会
■『上毛野国 忘れられた古代史』 尾崎喜左雄・岡島成行著  読売新聞前橋支局
 Google Earth /  Google MAP


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