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東国の古代史

2024-03-04 (Mon)

倉賀野堰の五貫堀・古堤・新堤(4/9)「現在の五貫堀 粕沢水門~新堤古堤」

倉賀野堰の五貫堀・古堤・新堤(4/9)「現在の五貫堀 粕沢水門~新堤古堤」

前稿からの続き本稿で記載する範囲は五貫堀の幹線部分の後半部分、粕沢水門から末端までの範囲です。↑長野堰の概略図(クリック拡大)以下の画像を左クリックするとGoogleMapの水路ルート画面が別タグで開きます。↑クリック水路図表示↑GoogleMapのルート図には河川や水路のルート表示モードはないため、水路ルートは歩行ルートで代替しています。水路が道路沿いにない場合、ルート図は水路から外れていますが、付近にはあります。以...

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前稿からの続き

本稿で記載する範囲は五貫堀の幹線部分の後半部分、粕沢水門から末端までの範囲です。

倉賀野堰流路図
↑長野堰の概略図(クリック拡大)

以下の画像を左クリックするとGoogleMapの水路ルート画面が別タグで開きます。


↑クリック水路図表示

GoogleMapのルート図には河川や水路のルート表示モードはないため、水路ルートは歩行ルートで代替しています。水路が道路沿いにない場合、ルート図は水路から外れていますが、付近にはあります。
以下画像は赤外フィルターを除去した改造カメラで撮影しています。一般撮影用のホワイトバランス調整を行っているが、調整しきれておらず、色調が正常ではありません。

五貫堀1

↑前半部記事で掲載した五貫堀は通水を止めていたが、この日は水路に水が流れています。

五貫堀3

↑下之城町のJR社宅跡と旧中山道の間を流れる五貫堀です。この部分は古い水路で非常に狭い。江戸時代の中山道は現在地よりも10mほど北にあったらしいので、五貫堀は杉並木の道沿いを流れていたものと思います。

五貫堀4

↑旧中山道の横を並行して流れる五貫堀。右側は道路です。下流方向を撮っています。水量が少ないため流れが見えません。この部分は比較的最近に改修されています。

五貫堀6

↑旧中山道から離れて、倉賀野町正六と下之城町の境を流れる流路です。水門は五貫堀正六水門と呼ばれている。水門ゲートは下之城町側に付いているが、閉じられていて通水されていない。この付近の水田は遠に消えています。

五貫堀7

五貫堀正六水門の下流100ⅿにある水門も正六水門です。この水門は重要で、水門の南東にある巨大な前方後円墳(倉賀野浅間山古墳)の周囲水田を灌漑している。画像左方向に分流しています。水が使われない季節は南部を流れる粕沢川に排水されます。

ウォーキングコースの史跡高崎市倉賀野町中山道16
倉賀野浅間山古墳の周囲に残る水田(クリック拡大)

五貫堀8

↑下之城町と倉賀野町の境界を流れる五貫堀。下流方向を撮っています。この付近は水路が広がり、幅は4ⅿほどあります。流路の先は倉賀野町です。

五貫堀9

↑倉賀野町にある無名水門です。正面の側溝に分水する施設ですが、冬場の時期は使われていません。夏になると水位が上がる事があるので通水は可能なようです。

五貫堀10

↑同じく倉賀野町の流路下流方向を撮っています。この付近は幅5m近くあります。相当な量の貯水が可能です。

五貫堀27

↑倉賀野町の幹線道路下を潜る直前の五貫堀上流方向を撮っている。倉賀野駅から1Kmほど西の位置です。左側の高い位置にある細い水路は分流水路ですが、先は完全な暗渠で追跡できませんでした。道路の側溝暗渠は複雑に接続するのと、流水があるか確認できないので追うのは難しい。

五貫堀の分岐
↑五貫堀分流図(2段クリック拡大)

五貫堀は倉賀野駅に近づくと水路は分流するので、地図を添付します。永泉寺裏水門(仮称)と上田堰水門で3つの流路に分けている。文字色は図面の線色と一致しています。
①新堤流路・・・・・・・倉賀野駅北東の新堤に給水するルート
②古堤流路・・・・・・・倉賀野駅南東の古堤に給水するルート
③五貫堀本線流路・・・  倉賀野町中心部を暗渠で烏川まで流れるルート

五貫堀11
↑水路分割する永泉寺裏水門

五貫堀12
↑水路分割する倉賀野駅横の上田堰水門


①新堤流路
倉賀野駅北東の新堤に給水するルートです。現在は通水されていないようです。新堤自体が灌漑には使われていないためでしょう。

五貫堀31

↑高崎線の線路下に潜る此の流路入口は、当初、下之城堰の排水を五貫堀に流す排水口と考えていた。しかし、それでは水門がある意味が無くなってしまいます。流路を追ったところ、新堤に向かう水路のようです。

五貫堀18

永泉寺裏水門の線路反対側にある水路です。場所は矢中踏切の北詰です。どうやら下之城堰水路ともつながっていますが、撮影位置背後にある新堤へ接続しているようです。水門ゲートは元キリンビール倉賀野工場の東側にあった水田に給水するための水門と思われます。現在は全て宅地に変わっています。

五貫堀15

新堤の導水口です。倉賀野駅北口の道路側溝として流れ、新堤南西隅に注ぐように造られている。

倉賀野堰16
↑新堤の画像手前左隅に導水口がある


②古堤流路
倉賀野駅南東の古堤に給水するルートです。このルートはやや距離があるので、前述の五貫堀分流図を参照してください。

五貫堀30

↑古堤への分流口探索には苦労しましたが、どうやら画像の上田堰水門東奥にある水路が入口のようです。水路面は高いので、水門でかなり水位を上げないと通水はできないようです。水路の様子から近年通水があったとは思えません。

五貫堀20

↑線路脇のすぐ下に古堤への水路はある。上流側の上田堰水門の方向を撮っています。水路は完全に乾燥状態です。

五貫堀21

↑暗渠に入った水路をたどると、倉賀野駅舎の南側に露出状態の水路があります。ここも近年通水した形跡はない。

五貫堀22

↑高崎線の南側に続く古堤への水路です。上流方向を撮っています。遠くに見えるのが倉賀野駅の駅舎です。

五貫堀24

↑高崎線の中里街道踏切の南詰めで水路は南に向くが、すぐに暗渠となって東進します。水路には泥が堆積して長く機能していない事を示している。

五貫堀25

古堤そばの道路側溝が水路です。ずっと暗渠の状態です。

五貫堀26

↑道路突き当りにある金網フェンスが古堤を囲う柵です。出口で確認したが、通水した形跡はない。おそらく通水を止めて以来、水路を流れるのは大雨で雨水が流れ込む時だけでしょう。

倉賀野堰20

古堤の導水口は溜池奥の右側隅にあります。堤からの出水ルートも追ってみましたが、すでに農地はない。宅地の中を流れる暗渠は分岐の連続で、通水のない状態では追跡は難しい。

③五貫堀本線流路
倉賀野町中心部を暗渠で烏川まで流れるルートです。

五貫堀14

上田堰水門の下流側です。上田という名称が何に由来するのか不明です。倉賀野町に上田地区は無いと思う。標識の背景にあるのは分かりにくいが古い設置記念石碑です。苔むした石が古さを物語る。

五貫堀19

上田堰水門の下流直下です。五貫堀本線はここから烏川に排水されるまで暗渠となり、露出する事はありません。暗渠の長さは2Km以上あるかも知れない。少なくとも灌漑には使われていないが、一切露出していないので、生活排水が流れ込むのか否かも確認できません。従って灌漑用水としての五貫堀は、ここが実質終点であり、排水口とも言えます。

五貫堀28

↑旧中山道の下を潜る五貫堀本線流路です。上の橋は太鼓橋として別稿で紹介しています。暗渠の上は生活道路になっているが歩いている人を見たことが無い。商店街のある道路ではないので当然です。

五貫堀29

太鼓橋下流域の水路です。烏川への排水口は近い。
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2024-03-04 (Mon)

倉賀野堰の五貫堀・古堤・新堤(3/9)「現在の五貫堀 円筒分水~粕沢水門」

倉賀野堰の五貫堀・古堤・新堤(3/9)「現在の五貫堀 円筒分水~粕沢水門」

前稿からの続き本稿で記載する範囲は五貫堀の幹線部分です。距離が長いため、円筒分水から途中の粕沢水門までとします。粕沢水門から末端までは次稿で記載します。↑長野堰の概略図(クリック拡大)以下の画像を左クリックするとGoogleMapの水路ルート画面が別タグで開きます。↑クリック水路図表示↑GoogleMapのルート図には河川や水路のルート表示モードはないため、水路ルートは歩行ルートで代替しています。従って水路が道路沿いに...

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前稿からの続き

本稿で記載する範囲は五貫堀の幹線部分です。距離が長いため、円筒分水から途中の粕沢水門までとします。粕沢水門から末端までは次稿で記載します。

倉賀野堰流路図
↑長野堰の概略図(クリック拡大)

以下の画像を左クリックするとGoogleMapの水路ルート画面が別タグで開きます。


↑クリック水路図表示

GoogleMapのルート図には河川や水路のルート表示モードはないため、水路ルートは歩行ルートで代替しています。従って水路が道路沿いにない場合、ルート図は水路から外れていますが付近にあります。


s-分水筒下流の水路1

長野堰本線の円筒分水から150mほど下流部です。流路の上流方向を撮っています。左側が倉賀野堰・五貫堀です。右側にはまだ矢中堰が流れているが、直後に離れていきます。高い位置にある細い水路には水流は無く、流路名は不明です。

s-分水筒に向かう倉賀野堰

↑手前が下流側です。南東に向かっていた倉賀野堰水路は、角度を変えて岩押町と上中居町の境界を南下します。

s-354を潜る前の倉賀野堰

↑手前が下流側で上流方向を撮影。左側が岩押町、右側は上中居町になります。水路はまっすぐに南下する。どこにも水路名の標識はありません。

s-354を潜る倉賀野堰5

↑手前が上流側です。先に見える交差点道路は高崎駅東口から伸びる国道354号線です。水路はこの下を潜って更に南下します。道路の右方向は高崎駅、左方向は伊勢崎、太田に向かいます。

s-群馬メッセ内倉賀野堰4

国道354号線の地下を横断すると、水路は群馬メッセへのアクセス道路横を流れます。画像は北を向いて水路の上流方向を撮っています。

s-群馬メッセ内倉賀野堰1

↑群馬メッセの敷地内建屋の間を水路は通過していきます。上流側から下流側の南方向を撮っています。部分的に暗渠化されている。

s-群馬メッセ

↑群馬メッセの建屋ですが、建屋が2つに分離している部分の間を水路が流れています。手前道路は競馬場通り。

1974高崎競馬場

↑1974年高崎競馬場時代の航空写真です。群馬メッセは旧高崎競馬場の跡地開発で生まれたイベント施設です。競馬場時代も同じ位置を倉賀野堰は流れていました。黒矢印で追記した部分が水路で北から南に流れる。競馬場の南側道路は現在でも競馬場通りと呼ばれています。

s-群馬メッセ下出口

↑競馬場通りを潜って南側に抜け出た倉賀野堰五貫堀です。背景は群馬メッセ。水路が暗渠下から2つに分かれていますが、左側が倉賀野堰五貫堀本線です。水面の低い右側は川の面堰下之城堰の流路です。暗渠の中で分流しているので、その方法は不明です。

s-双葉町第一水門

倉賀野堰第一水門と呼ばれる水門を北側上流から撮っています。ここで五貫堀川の面堰・下之城堰は分かれていきます。川の面堰下之城堰については別稿で踏査します。

s-双葉町第一水門2

↑右側の板で止めている水路が五貫堀です。この時は五貫堀への通水は止められていました。左側は川の面堰・下之城堰です。こちらはかなりの量が流れています。

s-双葉町第一水門3

倉賀野堰第一水門を南側から上流方向を撮っています。このあたりは双葉町と呼ばれる地域です。

s-双葉町17号南4

↑双葉町の中の五貫堀は、まっすぐな部分とくねくねと曲がった部分があります。区画整理する前の流路が残っているのだと思います。

s-双葉町17号南3

↑同じく双葉町の中の水路です。通水が止められているので溜まり水になっています。

s-双葉町17号南2

↑双葉町内の水路を渡る橋。この水路を踏査していて初めて見る水路名標識ですが、倉賀野堰ではなく五貫堀と書かれています。五貫堀が厳密にどの流路まで含めた呼称なのかは不明です。

s-双葉町17号南

↑双葉町の宅地を抜け、高崎線の線路付近に出た水路です。水路幅がぐっと広がっています。

s-双葉町高崎線線路下入口

↑高崎線の線路下を北側から暗渠で潜る五貫堀です。

s-高崎線線路の下の倉賀野堰

↑高崎線の線路を付近の陸橋の上から撮影。この下を右から左へ五貫堀水路が通っています。

s-上佐野町高崎線線路出口

↑線路の下を潜って南側に抜けた出口です。水路面の高度は周囲の標高に対して非常に低くなっています。40mほど西には五貫堀とは独立している佐野堰が流れているが、水面の高度差は3~4mほど五貫堀の方が低い。佐野堰が独立しており、長野堰での分流位置が五貫堀より上流なのは、佐野堰が供給する地域の標高が高いためと思われます。厳密な標高測量による水路設計がなされています。

s-上佐野町佐野小裏

↑佐野小学校の北側を流れる五貫堀。下流側から上流方向の撮影。ここからは水路の幅が異常に広くなります。粕沢水門に近いので、水が大量に必要な時のために貯水する役目があるのかも知れません。

s-上佐野小下流の五貫堀

粕沢水門直前の上佐野町を流れる水路です。下流側から上流方向を撮影。非常に深く幅も広い。幅は6~7mくらいありそうです。この付近からは水路は東に向かって流れます。

s-五貫堀の粕沢水門1

粕沢水門を西側の上流側から撮っています。通水されていないので水路の水深はごく浅くなっている。水門を右側(南側)に下ると粕沢川になります。この付近の左岸は下之城町ですが、右岸は倉賀野町で水路が境界になっています。水門の南側には旧中山道が走っている。江戸時代のこの付近は中山道杉並木の道沿いに粕沢滝があり、お茶屋のあった風光明媚な場所だったようです。当時の絵図を見ると、多分、水門のところが粕沢滝で奥の竹藪のあたりに立場(たてば)と呼ばれるお茶屋があったのだと思います。

s-粕沢水門アップ

↑水門のアップ画像。正面左側の水門が倉賀野町に向かう五貫堀水路の入り口です。広い水路は一気に狭い水路に戻ります。続きは次稿で記載します。なお、水門を右に下る粕沢川も踏査済であり、別稿で記載する予定です。


次稿に続く

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2024-03-01 (Fri)

祝 全国2位 山本知事どの

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群馬移住者人気2位

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2024-02-29 (Thu)

柿の植え付け

柿の植え付け

柿は好きですが、どうしても食べられない柿もある。熟して柔らかくなった柿です。あまり柿を食べない外国人は、柿をスイーツとして見ているそうな。熟してねっとりしたのをスプーンで食べるそうです。想像しただけでも身震いがする。笑実家の畑には富有と次郎と百目柿がある。でも収量の多いのは富有だけ。富有は美味しいが、すぐに柔らかくなってしまうのが難点です。その点、次郎と百目は硬い柿ですが、こちらは収量が少ない。そ...

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柿は好きですが、どうしても食べられない柿もある。熟して柔らかくなった柿です。あまり柿を食べない外国人は、柿をスイーツとして見ているそうな。熟してねっとりしたのをスプーンで食べるそうです。想像しただけでも身震いがする。笑

実家の畑には富有次郎百目柿がある。でも収量の多いのは富有だけ。富有は美味しいが、すぐに柔らかくなってしまうのが難点です。その点、次郎百目は硬い柿ですが、こちらは収量が少ない。そこで今日は農協販売所の植木コーナーで、柔らかくなりにくい柿の苗を買ってきた。「太秋」です。富有をもとに作られた品種なので味は似ているが、実がシャリシャリしているのが特徴です。人気のある品種のせいか、苗木のお値段は富有の2倍ほどしました。

果樹の植え方は詳しくないが、日当たりの良い場所に適当に植えました。柿は粘土質の土壌を好むそうです。うちの畑は粘土質です。受粉樹も近くに植えてあるので多分問題ないはず。


大秋11
クリック拡大

↑直径50cm、深さ50cmの穴を掘ります。掘り出した土に完熟堆肥を混ぜながら埋め戻していく。本当は質の良い腐葉土を混ぜたいが、最近は危険な外国産が多いので注意が必要です。発酵堆肥も完熟しておらず、未熟の場合も多いから根に直接触れないようにします。根焼けを防ぐためです。

大秋12
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↑苗木の根鉢の高さ分まで埋め戻したら苗木を置いて高さを調整します。あとはポリポットを外して土をかぶせるだけです。この時、鉢の根まわりには野菜用の培養土をまぶしておきます。多少は活着が良くなると思う?

大秋13
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↑土を被せたら散水しますが、凍結するほど冷え込む場合は、暖かい日が続くまで待ってから散水したほうが良いと思います。冬植えの場合はすぐに散水しなくても大丈夫です。凍結のほうがダメージが大きい。

太秋5
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↑あとは支柱を立てて、風で煽られないように軽く縛っておきます。暫くして活着したら接木した部分に巻いてあるビニールテープを剥がしておく。
今の時期に植えるのは寒地に適した植え方ですが、3月下旬まで可能です。理由は知らないが、暖地の場合は11~12月のほうが良いと聞く。群馬はどっちつかずの気候です。今後が順調なら2027年の11月には幾つか収穫できると思います。


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No Subject * by むさしの想坊
形名 さま

こんばんは。
昔、九州の人から大きな大きな柿が父宛に届いたことを
思い出しました。
渋柿を焼酎につけて甘くなったころ合いを見計らって
届いた逸品です。
中はトロリとしていますので、スプーンですくって
食べます。
見かけと大違いで、とても美味しかった記憶があります。
・・・
柿はやはり生食が一般的と思います。
私も噛み応えがある柿が大好きです。
・・・
ところで、庭に食べられる樹は植わっていますか。
わが家は、アルプス乙女、キウイフルーツなど、
植えましたが、今は・・・です。

Re: No Subject * by 形名
むさしの想坊さん、コメントありがとうございます。

九州は良質の柿が採れるそうですから、焼酎で渋を抜いた柿の生産も多いのでしょう。
高級品はとても高いらしいです。
私は焼酎処理したのは苦手ですが、甘味は甘柿よりも強いみたいですね。

私の自宅は庭が狭いのでミカンしかありませんが、去年は大豊作でした。
果樹はその他に柿とぶどうを栽培してますが、いずれも実家の土地でやってます。
果樹は食べる楽しみがあるので、面白いですね。

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2024-02-28 (Wed)

倉賀野堰の五貫堀・古堤・新堤(2/9)「長野堰・倉賀野堰の歴史」

倉賀野堰の五貫堀・古堤・新堤(2/9)「長野堰・倉賀野堰の歴史」

前稿からの続き倉賀野堰が作られた正確な時期は良く分からないが、江戸時代初期の1630年頃には流路は存在したようです。おそらく一挙に作られた訳ではなく、少しずつ掘削されたものでしょう。17世紀代の絵図も何枚か残っているが、正確な位置や規模が判別できないほど大雑把な図面です。そこで、時代の下る1830年(天保元年)の絵図を以下に掲載します。この図面は当時の長野堰の規模やルートを知るうえで非常に役に立ちます。現在の...

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前稿からの続き

倉賀野堰が作られた正確な時期は良く分からないが、江戸時代初期の1630年頃には流路は存在したようです。おそらく一挙に作られた訳ではなく、少しずつ掘削されたものでしょう。17世紀代の絵図も何枚か残っているが、正確な位置や規模が判別できないほど大雑把な図面です。そこで、時代の下る1830年(天保元年)の絵図を以下に掲載します。この図面は当時の長野堰の規模やルートを知るうえで非常に役に立ちます。現在の水路図と、ある程度対比が可能となっている。

1830年の長野堰流路1
↑1830年の流路図(クリック拡大)

1830年の長野堰流路2
↑1830年の流路図の南北逆転(クリック拡大)

↑現代の地図とは南北が逆なので図面を逆転しています。烏川取水の直後に榛名白川の地下を逆サイフォンによる伏越し工法で通しています。この伏越しは1814年に造られたらしい。この時代に実現していたとは驚きです。もっとも日本最古の伏越しは佐賀県にあり、17世紀初期だと言われている。有名な埼玉県の見沼代用水にも18世紀の伏越しがあります。従って最古のものから200年下る訳で、特別に古くはないそうです。
倉賀野堰は絵図の左上(→右下)に描かれている。水路図を見ると倉賀野堰というものの、倉賀野だけに供給している訳ではない。現代の双葉町、上下中居町、下之城町、倉賀野町、上下佐野町東中里町栗崎町台新田町岩鼻町と広大な面積に水を供給しています。倉賀野堰と呼ばれたのは、当時、倉賀野が周辺の村に対して際立って繁栄していたからであろう。


倉賀野堰流路図
↑現代の水路名(概略図)(クリック拡大)

上の画像でも分かる通り、現代の倉賀野堰は3つの幹線水路に分流します。これは江戸時代末期においても各水路規模の違いはあれど、存在しています。以下の画像見ると良く分かります。

1830年の長野堰流路3
↑1830年の水路と現在の水路名(クリック拡大)

1830年の長野堰流路5
↑1830年の水路と現在の水路名・南北逆転(クリック拡大)

上の図面は1830年の水路図に、現代の水路名を対比させたものです。もちろん物理的な位置が完全に一致している訳ではないが、類似している部分もある。位置が異なる要因には、当時の地表面は比較的自然地形が多かった事があげられる。現代においては宅地化で丘陵地は崩されて標高が一定になっている。水路設計は標高次第で決定されるものだから、分岐する位置が異なるのは当然であろう。

1830年当時の水路体系と供給地域は、長野堰上流部の細かい分流を除くと以下であったようです。

   長野堰---南大類堰現在の地獄堰)---高関村、中居村、柴崎村、上中下南大類村、綿貫村
        倉賀野堰---五貫堀(主幹線水路のみ?)----下之城村、倉賀野町、台新田村、岩鼻村
                                矢中堰(現在の矢中堰+上中居堰)--上下中居村、矢中村、栗崎村
                  五本木堰(現在の川の面堰)---上下中居村、矢中村、東中里村、 栗崎村
                  上下中居堰群 -----------上下中居村
               粕沢川 ------------------供給地不明

上下中居地区は江戸時代も現代も面積が広いので、複数の水路から供給されています。

実は地元では倉賀野堰のことを現在でも五貫堀と呼びます。ただ、五貫堀が他の矢中堰等を含めた総称なのか、主幹線路だけを指すのかは不明です。他稿『貫の付く川』で記載したが、五貫堀の名称由来はよく分からない。しかし、推測は出来ます。「貫」は訓読みでは「つらぬく」です。命名は江戸時代ですから、その時代の水路に着目する必要がある。おそらく「つらぬく」とは五町村を貫く、または、大まかに五つの地域を貫く水路という意味ではないか?具体的にどの水路を指しているのか不明ですが、他の支線水路を含めた総称であった可能性が高いと思います。それが現代では主幹線水路のみを指すようになったと思われます。
因みに高崎市北部を流れる一貫堀川は灌漑にも使われているが、自然河川に近い。大きな人工の水路分岐は非常に少ない。従って「ひとぬき」の水路と呼ばれたのではないでしょうか。一貫堀も水路としては長いが、総延長では五貫堀のほうが圧倒的に長いはずです。

1830年当時の長野堰は、円筒分水などという技術はありませんから、水路を枝分かれさせる方法で分流していた。従って、水量を正確に灌漑面積に応じて分流させることは出来なかったようです。また供給する水の絶対量が少ないため、水路末端に行くと水量は細り水不足は深刻だったといいます。だからこそ水争いも激しかったのでしょう。各地区の水番が主要分岐点でお互いに監視していたと言います。

1830年の長野堰流路4
↑南大類堰(地獄堰)、倉賀野堰の部分拡大図

そこで倉賀野堰管内の末端では溜池が江戸時代に作られた。少量の流入水を排水することなく貯めて必要時に其処から流した訳です。それが現在も残る古堤(ふるつつみ)と新堤(しんつつみ)です。倉賀野下町への流路の末端に古堤が作られ、倉賀野と記載された流路末端に新堤が作られている。

明治新古堤地図
↑1894年(明治27年)の地図

しかし当初から計画的に造られた訳ではなく、きっかけは江戸時代の天災であったようです。徳川四代将軍家綱の寛文年代、全国的な大旱魃が起きている。時の高崎藩主は、年貢を減少する代償として、農民の労力により灌漑用貯水池として建設したと伝えられる。寛文年間は1661年から1673年までの期間を指します。これが古堤です。
日本の災害年表を見ると寛文年代には以下の記載がある。旱魃の記録は見えないが、風水害と旱魃は表裏一体なので旱魃に見舞われた地域もあったのでしょう。延宝2年からの飢饉は旱魃の影響だと思います。
寛文2年 1662 京畿大地震
寛文5年 1665 越後地震
寛文6年 1666 諸国風水害
寛文8年 1668 江戸大火
延宝2年~延宝3年 1674~1675 諸国飢饉

古堤
↑2017年の古堤

本来の古堤は現在の2.5倍ほどの面積があったが、灌漑用水としての利用がなくなり、現在は半分以上埋め立てられて画像のような状況です。周辺の宅地化で周囲に水田は一切残っていません。すでに昭和40年代には殆ど使われなくなっていたそうです。



新堤の方は時代が下って、工事は天明3年(1783年)に始まり、天明六年(1786)に完成している。この時期は天候不順が数年間続いています。その結果、天明8年まで続く有名な天明の大飢饉が起きている。
天明2年 1782   天明の飢饉始まる
天明3年     1783   浅間山大噴火。天明の飢饉拡大
天明6年 1786       江戸大水害
天明8年 1786       天明の飢饉収束

20230330畑までウォーキング
↑新堤のほとりにある説明板

天明3年は浅間山岩木山が大噴火しています。飢饉は天明2年から始まっているので噴火が発端ではありませんが、追い打ちをかけたようです。被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人が餓死したと杉田玄白は記録しています。しかし、全国の犠牲者の数は30万人以上とも言われている。東北地方ではヤマセ(北東風冷雨)による冷害の飢饉です。死者の殆どは東北地方で発生している。天明3年7月の浅間山噴火では大量の火山灰が降った。降灰で極度の不作に見舞われ、周辺では飢饉が発生している。餓死者も出たそうです。これらの影響で幕藩体制は危機に陥り、老中松平定信による寛政の改革が行われる要因となっています。
新堤が作られたのも、古堤と同じく天明の大飢饉という災害がきっかけだったのです。当時の高崎藩は寛文の飢饉の教訓を生かし、新堤を造ってコメの生産量を確保しようと図ったのでしょう。古堤新堤はどちらも1936年昭和11年)に改修工事がなされています。今の両者は、見かけ上は時代差を感じないが、当初の築造には100年以上の時差があります。

20230330畑までウォーキング7

新堤の見た目は比較的新しいが歴史は古い。昭和50年頃まで鯉の養殖をやっていたので、地元の年配者は鯉池(こいけ)と呼んでいる。鯉は長野県の佐久まで運んで佐久鯉として売ったそうです。産地偽装です。
小学6年生頃には、近所の悪ガキと此処で鯉を密かに釣った記憶があります。当時は深い笹藪で囲まれていたので周囲からは見えなかった。でもみな逃がして持ち帰ることはありませんでした。

20230330畑までウォーキング9

新堤が築造された1783年当時の将軍は、第十代 徳川家治(いえはる)です。老中は有名な田沼意次ですが、3年後の1786年には失脚するので、田沼時代の末期という事になる。

20230330畑までウォーキング10

田沼時代は初期から天災や飢餓が続出し、宝暦、明和期は大旱魃や洪水など天災が多発している。その後も天災地変は続き、天明の大飢饉がに至ります。そのため全国で一揆や打ち壊しが各地で頻発した。田沼時代の宝暦から天明期の38年の間に発生した一揆の数は全国で600件近くあるそうです。そのような時代に新堤は造られたのです。


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2024-02-26 (Mon)

柿の木の剪定

柿の木の剪定

日曜日は雨で休んだが、ここのところ連日の徒歩取材で歩き過ぎて足が痛い。計30Km近く歩いているから老体には堪える。今日は休息を兼ねて柿の木の剪定をしました。↑剪定後の柿の木(クリック拡大)2018年植付だから4本とも幼木に近い。1本は受粉樹の禅寺丸なので実質3本です。すでに自宅で食べきれないほど実をつけます。桃栗三年柿八年というが、今の柿の苗は接木だから3年で実を付け始める。剪定時期としては1ヶ月ほど遅いも...

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日曜日は雨で休んだが、ここのところ連日の徒歩取材で歩き過ぎて足が痛い。計30Km近く歩いているから老体には堪える。今日は休息を兼ねて柿の木の剪定をしました。

柿の木剪定
↑剪定後の柿の木(クリック拡大)

2018年植付だから4本とも幼木に近い。1本は受粉樹の禅寺丸なので実質3本です。すでに自宅で食べきれないほど実をつけます。桃栗三年柿八年というが、今の柿の苗は接木だから3年で実を付け始める。
剪定時期としては1ヶ月ほど遅いものの許容範囲です。樹木の剪定は、立枝徒長枝、内向枝、並行枝等を切り落として、全体に日当たりを良くするのが基本です。加えて果樹の場合は収穫しやすいように背丈を抑えるように剪定します。また、柿の場合は今年の結果枝(実のなる枝)を残すようにしながら整枝するのがコツかな。単純セオリー通りに整枝しまくると樹形は良くなるが、実は少なくなってしまいます。
果樹というのは面白い性質があります。例えば、太い横枝から上にまっすぐ伸びる徒長枝には実が付きません。徒長枝の役目は木を上に向けて大きく成長させる事ですから、実を付けないのです。しかし徒長枝も紐で誘引して、横に無理やり曲げてやると実を付けるようになります。木は重力の方向を検知して、枝に実を付けるか否か決めているようです。


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No Subject * by kanna_24b
柿は大好きですが、子供の頃食べ放題だったことを思うと、なかなか買ってまで食べることが無いですね。
今は畑や庭先で柿が鈴なりに成っていても採らないうちがところが多いのですがね...。

Re: No Subject * by 形名
私も柿を自分でスーパーで買った記憶は無いです。
家内が秋になると、たまに買ってくるくらい。
柿は好きですが、果物の中ではもっとも太りやすいので
そこが難点ですね。
田舎では家に柿の木があるのが当たり前ですが、
確かに野鳥の餌になってる場合も多いです。
干し柿もつくるのはけっこう面倒だし。

No Subject * by 大暗黒天.
こんばんは。
コメントありがとうございました。
若木のうちに徒長枝を抑えるのですね。
勉強になりました。

Re: No Subject * by 形名
大暗黒天さん、コメントありがとうございます。

徒長枝は確かに落とすのが基本なんですが、樹を大きくしたい時は残すことも
あります。それから、元気のいい樹は毎年徒長枝が伸びますので、樹形が
乱れそうな場合は毎年剪定が必要になりますね。

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2024-02-21 (Wed)

倉賀野堰の五貫堀・古堤・新堤(1/9)「長野堰が作られた理由」

倉賀野堰の五貫堀・古堤・新堤(1/9)「長野堰が作られた理由」

すっかり古代史記事からは距離を置いている。書きかけの記事も下書きレベルで放置されています。妄想意欲が戻ったら記事にするつもりだが、どうにも意欲減退から抜け出せない。リハビリと言ったらおかしいが、最近手を出している郷土の近代ローカル記事を再び書こうと思います。少なくとも妄想する必要はないので。笑現在の高崎市は合併政策によって面積がかなり広がっている。特に南部や西部山間部への拡張は著しい。だが、高崎駅...

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すっかり古代史記事からは距離を置いている。書きかけの記事も下書きレベルで放置されています。妄想意欲が戻ったら記事にするつもりだが、どうにも意欲減退から抜け出せない。リハビリと言ったらおかしいが、最近手を出している郷土の近代ローカル記事を再び書こうと思います。少なくとも妄想する必要はないので。笑


現在の高崎市は合併政策によって面積がかなり広がっている。特に南部や西部山間部への拡張は著しい。だが、高崎駅を中核とする市街中心部は高崎台地の上にあります。具体的に言うと北部を流れる井野川と南部を流れる烏川に囲まれた地域です。台地の形成要因には幾つかあるが、高崎台地の場合は火砕流の堆積です。

倉賀野堰1
↑高崎台地の周辺標高地形図(2段クリック拡大)

↑上の図面は国土地理院ホームページから5ⅿメッシュ標高データをダウンロードして、それをカシミール3Dで作画・文字編集したものです。標高図を見ると、高崎駅を中心として南北東南方向に標高の高い台地(緑の濃い部分)が形成されているのが良く分かります。井野川の南側には支流の一貫堀川(人工水路)が流れるが、これと重なる位置に古烏川の流路痕跡がはっきりと残っている。従来は10mメッシュのデータでしか観察できなかったが、高精度化で視覚的にも判断がしやすくなっている。

高崎台地は以下のような地学事象を経て形成されています。
2万4千年前の浅間山噴火で前橋台地を作った前橋泥流が北から流れ込み、高崎台地の基盤層が作られた。その厚みは約10ⅿに達する。
1万1千年以前の古烏川は高崎市の北部を流れ、井野川と合流して下り、高崎台地基盤層の上に井野川侵食地形を形成していた。
1万1千年前の浅間山噴火の火砕流が古烏川を下り、高崎台地井野川侵食低地を埋め尽くす。その厚さは5~7mに達する。これを井野川泥流と呼ぶ。
④井野川泥流は徐々に高崎台地の高度を押し上げ、次第に流れ込むことができなくなる。そして南に流路を変えて碓氷川と合流して現烏川となる。井野川榛名山系からの単一河川として現烏川と並行する形で現代に至る。

これらは推測ではなく、綿密なボーリング調査の結果による。

20221105ウォーキング4
烏川の左岸と右岸では最大20mほど標高が異なる(城南大橋より高崎駅方向)

つまり高崎市中心部は北の井野川と南の烏川に挟まれた高い台地の上にあるのです。標高の高さは水害の少なさをもたらす一方で、水不足を引き起こします。高崎台地は稲作を行うためには人工的な灌漑設備が必要な地域なのです。因みに高崎市が首都分散移転の候補に上がっているのは主に地震の少なさが要因ですが、水害に強い事も理由になっている。NTTは本社機能の一部を東京都心から高崎市と京都市に移しています。 

長野堰7
↑長野堰の烏川取水口

長野堰高崎台地に農業用水を供給する用水路の名称です。西暦928年に長野康業長野堰の開発に着手したと伝えられている。しかし、考古学的な証拠はなく、当時の規模がどのくらいなのかは不明です。確かなのは、時代が下って1551年に長野康業の子孫、4代目の長野業正長野堰を整備し、現在の長野堰の原型が作られたこと。当時は現在の頭首工付近で烏川と合流していた榛名白川から取水して、榛名山南麓を中心に灌漑していた。その後、支配者が北条氏井伊氏松平氏に変わったが、各時代で用水路の延伸や整備が進められたという。

倉賀野堰流路図
↑長野堰の流路概略(クリック拡大)

現在の長野堰烏川中流の高崎市本郷町に長野堰頭首工を設けて取水している。水路は高崎市街地北部を流れる。高崎市東町で佐野分水が分岐して南の佐野地域を灌水する。さらにその先の江木町で地獄堰上中居堰矢中堰倉賀野堰の4水路に分流する。
昭和時代までは長野堰の水は、当時まだ盛んであった稲作には貴重な水資源であった。特に昭和中期までは、長野堰の分流水量の平等性をめぐり、地域どうしの水争いが絶えなかったという。そこで、1962年(昭和37年)に円筒分水堰が建設されたそうです。
倉賀野には正六という地名があるが、ここの農民は、中居、佐野、岩鼻の農民と常に水ゲンカ状態だったといいます。分水口の水番に出た者同士が、熊手や鎌を振り回してケンカし、怪我人も出たらしい。この状態は円筒分水が完成するまで続いたという。江木町の円筒分水の脇にある石碑文には、「恐ろしや 地獄の関と 思ひしが 悟ればここぞ 極楽の堰」とある。流血惨事の様子を地獄堰に引っ掛けて「地獄の関」と表現したと思われる。そして地獄から救済したのが此の用水であると述べているのでしょう。

江木町円筒分水
↑江木町にある円筒分水(高崎市ホームページより転載)


円筒分水筒構造
↑分流平面図と逆サイフォンの構造断面図

円筒分水はサイフォンの原理を利用して水量を公平に分ける技法です。円筒状の設備の中心部に用水を湧き出させ、円筒外周部から越流、落下する際に分割される。水平方向に流れる流体は分岐を設けるだけでは偏流を生じ、正確に量を分ける事は難しい。しかし、この方式は越流落下する周長を決める事で正確な分割が可能だという。

分水筒2
↑円筒分水による水路分割

分水筒直後の下流水路
↑分水直後の流路(左:上中居堰 中央:矢中堰 右:倉賀野堰)

↑左側の上中居堰はこの先で矢中堰と水路が合流している。従って上画像の水路は機能していない。しかし分流した水自体は鳴上堰として地獄堰と並行して流れているようです。円筒分水筒の平面図を見ると分かります。ただ、暗渠化されていて目視はできません。なお鳴上とは上中居地区の旧地名または字(あざ)と思われます。

分水筒直後の地獄堰
↑分水直後の流路(地獄堰)

分水筒下流の水路2
↑有名になった立体水路

なお、上中居堰または鳴上堰長野堰水路図に記載されていないのは、水路はあるが使用されていないからだと思います。上中居町、中居町、下中居町は100%住宅や店舗で占められていて灌漑用水の必要性のない地域です。長野堰は近代化改修が行われてから久しいので、その間に各水路周辺の農地環境は激変しています。既に灌漑設備自体が不要な地域も非常に多いのです。高崎市周辺部に僅かに残る農地に水を供給する事と、水路の美化保全の目的もあって通年一定量の通水を行っています。農業従事者には慣行水利権があるので、例え一軒でも使用者がいれば、渇水不能でない限り通水を行うようです。

本稿では、以降、4つの分流路の一つ倉賀野堰について紹介します。倉賀野堰は高崎市中心部の東南地域を灌漑する水路で、4つの流路では最も水量の大きなものです。本当は全部の水路を紹介したいが、歩いて確認が必要なため、かなりパワーが必要です。水路は単純に一本ではなく細かく分流しているからです。また別な機会とします。
なお、長野堰取水口から4つの分流施設までの状況は以下の記事に記載があります。ブログ初期の古い記事で丁寧に取材していません。幹線からの分流路については一切触れていない。ただ本流の雰囲気はつかめると思います。


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2024-02-21 (Wed)

「貫」の付く川

「貫」の付く川

群馬県高崎市には、○貫堀川という名前の川が2つあります。一つは『一貫掘川』、もう一つは『五貫堀川』です。どちらも本来は自然河川であったが、現状では人工河川もしくは水路です。具体的な河川名としては知らないが、他県にも似た名前はありそうな気もします。昔からこの川の名称由来が気になっていたが、いくら調べても分からない。「貫」は尺貫法でいうと重さの単位です。一貫は約3.75Kgです。もう一つは貨幣単位ですが、一貫...

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群馬県高崎市には、○貫堀川という名前の川が2つあります。一つは『一貫掘川』、もう一つは『五貫堀川』です。どちらも本来は自然河川であったが、現状では人工河川もしくは水路です。具体的な河川名としては知らないが、他県にも似た名前はありそうな気もします。

五貫堀川1

昔からこの川の名称由来が気になっていたが、いくら調べても分からない。
」は尺貫法でいうと重さの単位です。一貫は約3.75Kgです。もう一つは貨幣単位ですが、一貫は銭1000文に相当する。重さだとすれば五貫は19Kgくらい、貨幣だとすれば五貫は5000文ですから、江戸時代の金貨に換算すれば一両と一分です。人工河川の名称は、工事の労力や工事費などをエピソードとして付けられる場合があるかも知れません。しかし、重さにしても、貨幣にしても量が少なすぎる。これだという由来が思いつかない。
貫

その他に木材工法における補強法に「貫(ぬき)」というのを聞いたことがあります。貫板は補強に使う定型サイズの板材です。また、神社の鳥居の笠木の下についてる横棒も「貫」と言います。しかし、河川名には頭に数字が付いているので補強の意味の「貫」は考え難い。恐らくは単位系であるが、由来にはひねりのある理由や裏話があるのでしょう。
さしあたり今は迷宮の謎としておきますが、いずれ記事の中で推測を記載します。



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No Subject * by kanna_24b
仕事の関係で色々な橋を見て回りました。
此方の県北の方に迫川に架かる「十五貫橋」というのがありますが、間が訛って貫になったのかと勝手に解釈していましたよ。

Re: No Subject * by 形名
情報ありがとうございます。

やはりありましたか。地名は忘れたが、テレビ等で見たような記憶も
あるので全国には幾つかあるんじゃないかと思います。

「間けん」の音変化、または、文字変化は可能性がありますね。
ただ、一間を1.8mとすると、川幅と見た場合は、2つの水路は
微妙に合わないですね。五貫堀は4~5mくらい、一貫堀川は水流幅で5m、
管理地を入れると10m以上あります。
ネット検索したら県内で同じ疑問を持った人もいましたが、
理由不明のままでした。

Re: No Subject * by 形名
kannaさん

十五貫橋をストリートビューで見ましたが大きな橋ですね。
計測してみたら現状で280mありました。
地図で付近をみたら、十五貫というあざ名がすぐ北にあるので
地名から付けられた橋名のようです。
十五貫という地名も不思議ですけどね。

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2024-02-16 (Fri)

2024年2月16日 今日も風が強くて走りたくない

2024年2月16日 今日も風が強くて走りたくない

2月12日ポタリングの筋肉痛がやっと癒えたので、今日も強風の中で減量運動してきた。12日よりも風が強いので、心拍を上げ過ぎないようにゆっくり漕いでいる。心拍を上げてしまうと無酸素運動になってしまい、ブドウ糖を消費するだけで体脂肪は減らないといいます。クリック拡大↑烏川最下流の岩倉橋で高崎伊勢崎自転車道は川の右岸から左岸に移ります。橋からは群馬と栃木の県境にある皇海山(すかいさん)と日光白根山が良く見える。...

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2月12日ポタリングの筋肉痛がやっと癒えたので、今日も強風の中で減量運動してきた。12日よりも風が強いので、心拍を上げ過ぎないようにゆっくり漕いでいる。心拍を上げてしまうと無酸素運動になってしまい、ブドウ糖を消費するだけで体脂肪は減らないといいます。

20240216ポタリング11
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烏川最下流の岩倉橋高崎伊勢崎自転車道は川の右岸から左岸に移ります。橋からは群馬と栃木の県境にある皇海山(すかいさん)と日光白根山が良く見える。右側の男体山は栃木県の山です。

20240216ポタリング2
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↑自転車道の横にある角渕キャンプ場でパンとコーヒーで昼食。今日はガスバーナーではなくウッドストーブを使う。燃料は小枝と松ぼっくりです。松林なので幾らでも落ちている。ちなみに自転車のフロントバッグにはパンク修理キットとストーブ類が何時も入れっぱなしです。

20240216ポタリング3
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↑このキャンプ場は無料ですが、使用するには予約が必要です。管理は玉村町役場が行っている。テントを張らないで、ご飯を食べるだけなら予約は必要ない。夏は樹木で薄暗いが、冬は明るくて気持ちのいいキャンプ場です。高崎市民でも無料で使えてありがたい。実は高崎市と佐波郡玉村町は仲が悪い。町は何十年にも渡って高崎との合併を拒否している。笑

20240216ポタリング4
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↑ウッドストーブには小枝と松ぼっくりをいっぱいに詰めて上から火を付けます。ぎっしり詰めても15分くらいで燃え尽きてしまうほど燃焼速度が速い。

20240216ポタリング5
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↑風が強くてアルミの風防板が飛ばされてしまう。固定する方法を考えないといけない。剪定ばさみは落ちてる小枝をカットする時に使ってます。

20240216ポタリング6
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↑風があるので綺麗な二次燃焼炎は見られないが火力は案外強いです。あとには白い灰しか残らない。

20240216ポタリング7
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↑500ccの水でも5~6分で沸騰する。写真は無いがダイソーの針金ドリッパーを使ってコーヒーを入れてます。ペーパーフィルターもダイソー。お安い爺さんです。

20240216ポタリング8
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角渕キャンプ場
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角渕キャンプ場岩倉自然公園の中にあります。隣接する玉村水辺の森公園と合わせると広大な面積を持つ。自転車道は公園を囲むように設置されています。
今日は誰もキャンプしてる人はいないが、土日は数組がテントを張っています。テントサイトは固定されてはおらず、空いている場所を自由に使ってよい。面積は広いので利用者でいっぱいなることは無い。直火跡やゴミなども無く整備されています。水道設備もあるが、唯一の欠点は簡易トイレしかないこと。もちろん水洗ではない。○○はお腹に入れたまま持ち帰ることをお勧めします。

20240216ポタリング9
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↑キャンプ場から15分ほどの自転車道。正面は赤城山です。左手の2つは子持山小野子山。拡大すると苗場山谷川岳も見えるのですが露出オーバーで見えにくい。ここは利根川烏川の合流点付近です。右手には利根川が流れ、左手には烏川があります。ここで自転車道は北西に向きを変えるので、冬は強烈な風の洗礼を受ける場所。遠くに見える五料橋南詰めで利根川自転車道に接続します。

20240216ポタリング
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20240216ポタリング125
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↑利根川自転車道の土手下には畑が多く、この時期は花桃?や梅?がたくさん咲いている。土手と川の間には雑木や竹藪も多いので風は幾分弱まります。

20240216ポタリング10
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↑自宅近所から見た浅間山。山の左側は長野県、右側は群馬県です。逆光で分からないが雪で真っ白です。今日は時間を掛けてゆっくり走ったので疲労せずに済みました。少しは体脂肪が減ると嬉しいのですが。


コース  高崎市→高崎伊勢崎自転車道→玉村町角渕キャンプ場→高崎伊勢崎自転車道→
     利根川自転車道→高崎市
走行時間 3時間30分(休憩含む)
走行距離 計測せず


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おかえりなさいませ * by ecl
お!ブログに復活されておられたのですね。
お帰りなさいませ。
自転車、良いですね。
私は訳あって十数年前に止めてしまいました。
といっても私はマウンテンバイク。
最後はスリックを履かせてロードに必死についていってたっけ。
たまに乗ると面白いかもしれないですね。
あ、グリス切れでベアリング壊すだけかな?

Re: おかえりなさいませ * by 形名
eclさん、おはようございます。コメントありがとうございます。

eclさんも自転車に乗ってた時期があるのですね。
マウンテンバイクは専用のフィールドがあれば楽しめますね。
舗装道路でもそれなりに楽しめますが、魅力的とは言えないかもです。
タイヤのせいで路面抵抗が大きいからねー。

私も使ってた時期があります。一時期流行したんですよね。
でもダートコースなんて殆どないし、乗らなくなってしまい放出
してしまいました。
https://katana04.blog.fc2.com/blog-entry-1370.html

No Subject * by kanna_24b
ランチが目的になると少々風があってもサイクリングもあまり苦にならなくなるのでは...?
焚火でランチなんて楽しそうです 笑

Re: No Subject * by 形名
kannaさん、こんばんは。

ランチポタもたっぷり糖質系とタンパク系を食べられるなら良いのですが、
あんぱんとコーヒーだけでは満足感がちょっと足りませんね。
kannaさんが食べてるような鍋セットみたいのを試してみるかな。
本格調理すると、材料・道具が急に増えてフロントバッグに収まらなく
なるんですね。

No Subject * by torikera
こんにちは。ご訪問ありがとうございました。

とても素敵なキャンプ場ですね。コンロもいいですね。火力もありそうで、重宝しそうです。松ぼっくりで沸かした湯で飲むコーヒーも魅力的です。

御荷鉾のツーリング記事なども拝見させていただきました。いあやぁ、きつそう(^▽^;)私なら途中で帰ってしまいそうです。

Re: No Subject * by 形名
torikeraさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

角渕キャンプ場は冬場がお勧めのキャンプ場ですね。
明るくて、客が少なくて静かに楽しめます。
予約が面倒ですが他県の人も無料です。

私はガスバーナーも使いますが、ソロストーブ系のウッドストーブ
を良く使います。時間がかかるが余裕があれば趣がありますね。
https://katana04.blog.fc2.com/blog-entry-2474.html

自転車ツーリングも趣味なんですが、加齢で最近はきついのは
駄目ですね。日帰りポタリング専門になってしまいました。笑

torikeraさんもアウトドア系が好きみたいですね。
記事を少しづつ読ませてもらいます。


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2024-02-12 (Mon)

2024年2月12日 風が強くて走りたくない

2024年2月12日 風が強くて走りたくない

昨晩、風呂に入ったとき、久しぶりに体重計に乗ってみた。68Kgしかないはずが71Kgになっている。3Kg減らすのは容易な事ではないですよ。できれば家で温まっていたいが、強風吹きすさぶ中でも走らねば。なお、画像はガラケー撮りなので画質が悪いです。↑風を避けながら玉村町の路地裏を走っていると見かけないお寺を見つけた。その名を八幡山 頼朝院 円福寺という。境内に入るのは遠慮したが綺麗に整えられたお寺でした。源頼朝公が...

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昨晩、風呂に入ったとき、久しぶりに体重計に乗ってみた。68Kgしかないはずが71Kgになっている。3Kg減らすのは容易な事ではないですよ。できれば家で温まっていたいが、強風吹きすさぶ中でも走らねば。なお、画像はガラケー撮りなので画質が悪いです。

風が強くて走りたくない1

↑風を避けながら玉村町の路地裏を走っていると見かけないお寺を見つけた。その名を八幡山 頼朝院 円福寺という。境内に入るのは遠慮したが綺麗に整えられたお寺でした。源頼朝公が東征に赴く際、八幡原で病に倒れ、身体を癒した場所に開山されたという。院号の頼朝院はこの伝承に因んでるらしいが、開山は1651年の江戸時代なんですよね。開山経緯にちょっと重みのないお寺と言っては失礼かな。

風が強くて走りたくない2

↑自転車道の近くに伐採した木が玉切りされて集積されている。玉村ゴルフ場の伐採木です。おそらく希望者に無料配布される予定でしょう。貰いたいが、もう家に置くところが無いんですよね。これだけあればいっぱい薪割りが楽しめます。薪は使うより薪割り自体が楽しい。
因みに背景にあるのは玉村町の梨ノ木山古墳です。残存部は円墳だが、本来は前方後円墳です。神流川の戦いの際、滝川一益が陣を敷いたとされる軍配山古墳のすぐ近く。直径45mの墳丘は二重の堀をめぐらせた広大な墓域を持っている。埋葬されているのは、4世紀築造の軍配山古墳の埋葬者権力を継承し、さらに力を強めた5世紀の首長でしょう。

梨ノ木山古墳
↑クリック拡大


風が強くて走りたくない3

↑利根川と背景の赤城山です。まだ雪解けの季節とは云えない。でも日本一の水量を誇る河川らしく水は豊かです。このあと西上州から流れ込む烏川と合流するので更に水量が増えます。

風が強くて走りたくない4

↑こちらは榛名山。西からは浅間山、北西からは榛名山、北からは赤城山を越えて強風が吹き抜けます。風を遮るものがない所では、いくら漕いでも時速5Kmくらいしか出ない。歩いているのと同じです。でかい土地改良記念碑があったので風よけにして撮影している。


コース  高崎市→佐波郡玉村町→高崎伊勢崎自転車道→利根川自転車道→高崎市
走行距離 計測せず
走行時間 2時間30分(通常なら約1時間20分のコース)


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No Subject * by kanna_24b
空っ風で名高いところですから、かなりの風なのでしょうね。強い向かい風は上り坂よりしんどいですから...

私も術後しばらくの間 動けないでいたら69kgだったはずが74kgまで行ってしまい、少しずつ減らしているのですが まだ72kg台で行ったり来たりしています。

Re: No Subject * by 形名
こんばんは。

風は脈動があるのでしんどいですね。群馬は、これから更に風が強くなるので
憂鬱です。もう花粉も混じってますし。
体重管理は重要ですね。私は身長が173㎝ですから標準体重は64kgくらいに
なります。68kgでもオーバーしてるんで元に戻さないと、いろいろ問題が
でます。本当は風で筋トレになってしまう自転車より歩く方が体脂肪は
減るんですが、足に故障が出るんですよね。

No Subject * by ご〜ご〜ひでりん
こんばんは!
群馬のからっ風、私も玉村町あたりを自転車で走った経験があるのでわかります。笑。
これからきっと、さらに風が強くなる時期ですよね。

私は、自転車にはすっかり乗らなくなってしまって、古墳巡りは車オンリーです。

Re: No Subject * by 形名
ご〜ご〜ひでりんさん、おはようございます。コメントありがとうございます。

ひでりんさんも、風の強い季節に走った経験があるのですね。
おっしゃる通り、風のピークは2月中旬から3月下旬ですね。
群馬県では夏秋の台風よりも冬の風被害のほうが多い年もあるそうです。
古墳見学は、散在した古墳群や街中の見学では、駐車場所の心配が無い自転車も
便利ですね。私はもっぱら自転車での見学が圧倒的に多いです。
遠距離の見学時も折り畳み自転車を車に積んで利用する場合もあります。
半分ダイエット運動を兼ねていますけどね。

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